小普請支配・長田越中守元鋪(もとのぶ)
「長田(おさだ)越中どのが8月19日の逢対日の八ッ半であれば、お待ちしている---とのお返事がいただけたということでございました」
納戸町の親戚・長谷川久三郎正脩(まさひろ 61歳 4070石 小普請8の組支配)のところの小者が伝えてきた、
長田越中(守)とは、先日、叔父・久三郎正脩に引き合わせを頼んでおいた、小普請9の組支配・長田元鋪(もとのぶ 74歳 980石)である。
4年前から、9の組の支配をつとめている。
役があてがわれていず、出仕していないお目見(めみえ)以上、3000石以下の旗本を束ねているのが小普請支配である。
員数は時代によって増減があったが、この時期は12名。
役高は3000石---したがって、980石の長田元鋪には、2020石の足高(たしだか)が支給されている。もっとも、役高2000石の普請奉行からの栄転だら、足高だけでいうと、1000石(1000両相当)の増収ともいえる。
ついでにいうと、仲にたった長谷川忠脩が家禄し4070石なので役高の3000石を超えており、足高なしの持高(もちだか)勤めである。
指定された日の八ッ半よりすこし早めに、本郷水道橋の建部(たけべ)坂上近くの東側の長田邸を訪問した。
(青○::建部坂上の長田越中守の屋敷)
余談だが、建部坂の坂名の由来は、坂下に旗本・建部邸(1400石 現・文京区元町公園)があったからである。
別名、春日坂とも呼ばれていた所以(ゆえん)は、幕臣宅が建つj以前、あたりは春日の藪だったからと。
【ちゅうすけ注】ちゅうすけの住まいに近いので、さんぽコースの一つにしている、女子進学高校として高名な桜蔭校の裏手の道ぞいに下る坂である。
供の松造(まつぞう 22歳)が訪(おとな)いを乞うと、ちゃんと通じていたらしく、すぐさま、逢対の部屋とはちがう、書院へ通された。
待つほどもなく、痩身の越前守元鋪が、逢対のままであろう、きちんと袴をつけてあらわれた。
「お疲れのところ、申しわけございませぬ」
恐縮の体(てい)の銕三郎(てつさぶろう 28歳)に、
「お楽になされよ。8の組頭どのからは、ご用の筋はうけたまわってはおらぬが、京洛からお戻りになったばかりとか---」
気軽に話しかけてきた。
京都で、父・宣雄(のぶお 享年55歳)の葬儀を、千本出水の華香寺で執りおこなったとき、住職からこちらさまもあの寺をお使いになったと聞いたときりだすと、
「家族同伴で赴任したのじゃが、むすめが歿しましてな。わが家の菩提寺は、谷中・東寺町の法華宗・正運寺なのじゃが、葬儀はとりあえず華光寺であげたのござる」
【ちゅうすけ注】正運寺の所在は、史書によっては三崎町と記しているものもあるが、場所は同じである。しかし、その後いずこかへ移転したらしく、現在は台東区内にはない。
禁裏付は、いろいろな理由から、妻子同伴の赴任がしきたりになっていた。
長田元鋪夫妻は、3人のむすめをえたが、2人は上洛前に病没しており、同伴した末のむすめも京でみまかった。
「拙のところの旦那寺は、四谷・須賀町の戒行寺で、同じく法華宗でございます」
寺の話から、気ごころが通じてしまった。
「で、長谷川うじ、ご用件は?」
「よしなきことで時をついやし、失礼つかまつりました。越中さまは、何年ほど、禁裏付をお勤めでございましたか?」
「そう---まる16年---異例の長きにわたり申した」
「摂家(せっけ)公家(くげ)衆がお放しにならなかったのでございましょう」
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コメント
人生って不思議です。異郷の同じ寺で葬儀をしたというだけでも、うちとけられるのですね。
投稿: tsuko | 2009.12.12 05:51
平蔵は、人の心を捉え、安心して話さす才能と技術に長けています。
盗賊たちも、拷問しないでも、すらすらと自白させたようですし、女性も会えばたちまち、気(躰でなく)を許したのではないでしょうか。
投稿: ちゅうすけ | 2009.12.12 08:06