亡父・宣雄の三回忌(2)
「小野どのも日光へ供奉(ぐぶ)なさるのでしょうな?」
本家の当主で、先手・弓の7番手の組頭の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 67歳 1450石)が、同じ8番手の次席与力・小野史郎(しろう 50歳)に問いかけた。
太郎兵衛正直の組も、史郎の組と言うより、組頭・嶋田弾正政弥(まさはる 39歳 2500石)も、来年4月に挙行される将軍・家治(いえはる 39歳)が念願の日光社参の供に選ばれた。
本丸に30組ある先手からは、弓が10組中、5組、20組ある鉄砲組からは10組の組頭に参列警護の内示があった。
太郎兵衛正直としては、先手組頭の足かけ13年におよぶ在任中のもっとも晴れがましい任務であったから、機会さえあれば話題にする。
この夕べも、昨年、勤めを辞した長谷川久三郎正脩(まさむろ 65歳 4070石)はともかくとして、この家の主婦である久栄(ひさえ 23歳)の実家・大橋与惣兵衛親英(ちかひで 62歳 200俵)にはその内示がなかったのであるから、日光まわりの話題は控えるべきであった。
しかし、弓・八番手の嶋田組の内山与力の顔をみて、おさえきれなかった。
一旦、口に出してしまったものは、ひっこめるわけにはいかない。
供奉のことを訊いたのは、選抜された組の組下全員が参列するわけではなく、1組の与力10人、同心30人から半数前後が筆頭与力と次席によってふるいにかけられる。
組とすれば、綱紀粛正の一つとしてとらえていた。
もっとも、太郎兵衛正直の7番手は、与力は10騎だから5騎は参加できるが、嶋田組の8番手の与力は5名だから参列は3騎にかぎられる。
それで、
「小野どのも日光へ供奉(ぐぶ)なさるのでしょうな?」
という、一応は敬意をこめた問いかけになった。
「はい。筆頭の秋山どのが、ここ1,2年、体調がおすぐれにならないので、手前が組をまとめることになっております」
小野次席の声も、どことなく弾(は)ずんでいた。
が、先手の与力(寄騎)といっても、その人数に間に合うだけの馬が調達できないから、同心と同じく与力は徒歩であった。
「備中(守宣雄 享年55歳=安永2年)どのも、あと3年、長生きをしておられれば、晴れの行進に参加できたものを---」
太郎兵衛正直の室・於佐兎(さと 60歳)が、宣雄の内妻・妙(たえ 50歳)に気づかって言葉をつないだが、妙は、
「いいえ。あの人は、荒々しい火盗改メより、京都町奉行のほうが性(しょう)にあっておりましたろう」
一同、仏壇に眸(め)をやり、合点(うなず)いた。
ひとり、平蔵(へいぞう 30歳)だけは、腹の中で、つぶやいていた。
(父上のことだ、お上(かみ)も下(しも)も勝手(財政)元が苦しいときに、無理算段しての参詣を、大権現さまは笑っておられよう、とおっしゃったろう)
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