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2010.10.17

寺社奉行・戸田因幡守忠寛(ただとを)(2)

旬日後---。

宇都宮藩主・戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳 寺社奉行兼奏者番)も招いておいたから、役宅へ参じるように、できれば、いつぞやの香具師(やし)の元締・〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 52歳)と、因幡侯城下の〔越畑(こえはた)の常八(つねはち 26歳)とかいった若いのも同道してよい、との鳥居伊賀守忠意(ただおき 62歳 西丸若年寄)からの誘いを、同朋頭がもってきた。

承知だが、常八は諸事を学びにいそがしいから、連絡(つなぎ)がむずかしいかも、との返事をもたせ、音羽へ向かった。

従者の松造(まつぞう 27歳)には、屋敷へ〔音羽〕へ立ち寄っていることを告げた上で、そのまま帰宅し、善太(ぜんた 9歳)とともに、お(くめ 37歳)とお(つう 11歳)の帰りを待っていてやれ、といたわった。

〔音羽〕では、どうせ、夕食をすすめられる。
松造の分まで、気をつかわせてはいけない。

案の定、重右衛門は、
「見せものになりますな」
苦笑したが、承知した。
鳥居伊賀守が、自分が下じもの者とも付きあいがあることを、戸田因幡守に自慢したがっていることぐらい、苦労人の〔音羽〕の重右衛門はとっくに気づいているが、断ると平蔵の立場がなくなると配慮しているのだ。

平蔵もそのことは察していた。
それゆえ、遣い者でなく、自分で伝え方々、謝りに出向いたのであった。

重右衛門の内儀・お多美(たみ 37歳)の受けとり方は別であった。
元締が宇都宮藩主の戸田因幡守に会うことで、〔釜川(かまがわ)〕の藤兵衛の顔も立つのが一つ、さらに、香具師の縄張りのほとんどは門前かいわいなのだから、寺社奉行と通じることで、これからどんな利得を得るかは才覚しだいと判断していた。

この時期、寺社奉行は5人いたことには、お多美は頓着していない。

松平伊賀守忠順(ただより 62歳
 上田藩主 5万3000石)
明和元年(1764)6月21日 奏者番ヨリ、 兼
天明元年(1781)5月11日 若年寄

土岐美濃守定経(さだつね 51歳
 沼田藩 3万5000石)
明和元年(1764)6月21日 奏者番ヨリ
天明元年(1781)5月11日 大坂城代

太田備後守資愛(すけよし 40歳
 掛川藩主 5万石) 
安永4年(1775)8月28日 奏者番ヨリ
天明元年(1781)閏5月11日 西丸若年寄

戸田因幡守忠寛(ただとを 41歳
 宇都宮藩主 7万7000石余)
安永4年(1775)8月28日 奏者番ヨリ、兼
天明2年(1782)9月10日 大坂城代

牧野豊前守惟成(これしげ 51歳
 丹後・田辺藩主 3万5000石)
安永6年(1777)9月15日 奏者番ヨリ、兼
天明3年(1783)卒


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(戸田因幡守忠寛の個人譜)

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017幕閣」カテゴリの記事

コメント

壬生藩の一件が片付いたら、宇都宮藩ですか。公私ともにお忙しいことで、大慶至極です。

『寛政譜』をみると、宇都宮藩主の戸田因幡守忠寛は、つぎは大坂城代のポストが約束されています。

佐野与八郎政親の大坂町奉行時代と重なるとしますと、平蔵の尽力が実りまするね。

いや、なんだか、肩入れがすぎたようです。

投稿: 左衛門佐 | 2010.10.17 05:52

>左衛門佐 さん
鋭いご質問に、肝を冷やしました。
ちょっと、他のことにかかずらわっており、気になりながら、レスが遅れ、申し訳ありませんでした。

宇都宮藩主の戸田因幡守忠寛(ただとを)侯の大坂城代発令は天明2年(1982)910日。
佐野備後守政親(まさちか)の堺奉行から大坂東町奉行への栄転は天明元(1781)年5月26日の発令ですから、同4年に因幡侯が京都所司代へ移った2年間ほど、同じ地の大坂にいたことになります。
当然、戸田因幡侯は上司として接したでしょう。

投稿: ちゅうすけ | 2010.10.19 04:29

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