豊千代(家斉 いえなり)ぞなえ(3)
「伽衆といえば---」
浅野大学長貞(ながさだ 35歳 500石)が口ごもったのは、本丸ではまだ極秘の人事ごとなのであろう。
「明日には公けになることだが、豊千代さまの伽衆が決まった」
天明元年5月には、閏5月があった。
明日とは、その閏5月の2日。
「やはり紀州衆か?」
3人のうちでは佐左(さざ)でとおっている長野佐左衛門孝祖(たかもと 36歳 600俵)が身をのりだした。
もの見高いのが身上であった。
里貴(りき 37歳)も耳をすました気配であった。
「はずれ---」
「もったいぶらないで早く話せ。秘密は守る」
『徳川実紀』の閏5月2日の記述------
小納戸・加藤玄蕃則陳(のりのぶ 46歳 1500石)が子・寅之助則茂(のりしげ 9歳)。同・松平小十郎定胤(さだたね 47歳 3000石)の子・小八郎定経(さだつね 11歳)。中奥番・横田源太郎松房(としふさ 38歳 1000石)が子・鶴松松茂(とししげ 5歳)こたび御養君仰出さるるにより、かねて御伽に定めらる。
(括弧内はちゅうすけが補充)
「辰蔵(たつぞう 12歳)さまも、せっかくお作法をお修めになっているのに---」
里貴が口惜しがり、つい、指に力がはいった。
「力むな。父親の評判がよくないから、声がかかるはずがない」
「評判がよくないって---?」
「おんなに、だらしない」
「いやッ---」
藤ノ棚の寝間での睦ごとであった。
湿気が高く、素裸でも、はげむと汗ばみかねない季節になっていた。
まだぬくもりがのこっている湯で、行水した。
平蔵の背中をながしながら、
「そういえば、田沼侯の中屋敷の佳慈(かじ 31歳)さんが耳うちしてくださったのですが、ちかぢか、寺社(奉行)の大田備後守(資愛 すけよし 46歳 掛川藩主 5万石)さまが、西城の若年寄上座にお着きなるようだから、銕(てつ)さまのお耳においれしておくようにって---」
「早耳しても、おれにはあまりかかわりはないが、番頭の水谷(みずのや 出羽守勝久 かつひさ)51歳 3500石)どのへでもささやいておくか」
「噂の出どころを訊かれたら---?」
「それもそうだ。黙っておこう」
「ささやき甲斐のないこと」
【ちゅうすけ補】『実記』の、この年の6月12日に、
小姓・柘植左京亮英成(ひでつぐ 38歳 532石)が子・三之英清(ひできよ 9歳)若君の御伽に加へらる。
(加藤寅之助則茂の個人譜)
(久松松平小十郎定胤の個人譜)
(横田鶴松松茂の個人譜)
(柘植三之丞英清の個人譜)
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