嶋田宿への道中(4)
宇津谷峠をくだった岡部の茶店で一息したとき、
「松造(よしぞう 31歳)。〔野川(のがわ)〕の潤平(じゅんぺえ 50男)のことが気になるらしいな」
「あの齢で、佐渡の水汲み人夫で終るのかとおもうと、なんだか哀れになりまして---」
「松造らしくもない---」
「なぜでございます?」
平蔵(へいぞう 37歳)が人差指と親指をすりあわせ、
「おぬしも20歳近くまでこれで稼いでおって、ちぼ(摺摸 すり)はその場を押さえなければ罪にすることがむつかしいくらいのことは存じておろうに---」
「しかし、自白させられますと---」
「いくら田舎の町奉行所だとて、拷問ででっちあけげた罪状で佐渡送りにはすまい。もし、目安箱に「おそれながら---」と一札投げこまれたら、評定所もので、町奉行の首がとぼう」
平蔵は、3日もすれば20叩きで追放だろうがと推量しておいて、
「松造の読みでは、潤平は西へ上るか、東へ下るか---?」
「本陣・〔小倉〕の番頭がふりまいた噂が耳に入れば、殿を追って西へ上ることはございますいますまい」
「そうかな」
「---と申されますと?」
「復讐にこないともかぎらない。嶋田宿まで気くばりを怠ってはならぬ」
だが、平蔵主従のほうが3日先んじていたらしく、島田宿の本通4丁目北側本陣〔中尾(置塩)〕藤四郎方へ入るまで、潤平の影はなかった。
(嶋田宿 赤○=本陣・[中尾(置塩)} 左端は大井川 『東海道分間絵図』より )
10年前に、父・宣雄(のぶお 享年55歳)の先鉾として上京したときは、〔中尾〕より一格落ちの隣の本陣・〔大久保〕新右衛門方を指定された。
京都町奉行として久栄(ひさえ 20歳=当時)同道で赴任の道中をした父はもちろん、〔中尾〕に宿泊とわかっていたから、間口16間余の堂々とした構えの下本陣〔中尾〕をうらめしく眺めたことであった。
下本陣とは、3軒あった島田宿の本陣の中で京都からみてもっとも東に位置していたための俗称であったが。
(東海道筋・本通4丁目に面した本陣・〔中尾(置塩)〕藤四郎 『東海道と島田宿展』カタログより)
〔中尾〕には、火盗改メ・増役(ましやく)の建部組の同心である三宅重兵衛(じゅうべえ 42歳)と古室(こむろ)忠左衛門(ちゅうざえもん 30歳)が待ちかねていたらしく、埃おとしの湯もすすめないで、従えていた小者を陣屋へ走らせた。
陣屋は、〔中尾〕の東側の御陣屋小路を北へ入った、本陣のすぐ裏手にあった。
陣屋からは手代の裕助(ゆうすけ 45歳)と、土地の岡っ引きの宇三(うぞう 38歳)がやってき、早速に聞きとりがはじまったが、平蔵はその前に、松造を、大井神社脇の宮小路で置屋〔扇屋〕の主人で香具師(やし)の元締・万次郎(まんじろう 51歳)のところへ、今夜の都合を訊かせにやった。
〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 56歳)からの引きあわせの書状をもらってあった。
手代の裕助が幕府へ送ったとおりの箇条を、ほとんど感情をこめないで棒読みした。
平蔵も2人の同心も、事件書の写しを目でたどりながら黙って聞きおえた。
「ほかに、なにか---?」
祐助が三宅同心を見ながらうかがった。
三宅は目で、平蔵をうながした。
「賊の頭数が書いてないが---?」
祐助から応えるようにいわれた岡っ引きの宇三が、
「それがはっきりしねえんで---。7人いたとも、10人だったとも、言い分が違えますんで、顛末書に書くのを遠慮いたしやしたしでえで---」
「尾張ことばを話したのは何人だった?」
「えーと、頭目格の男と、副将格のが話しあったと---」
「尾張ことばと気づいたのは---?」
「〔神座(かんざ)屋の主(あるじ)の伍兵衛(ごへえ)さんです。渥美の蔵元から婿にきておりやすんで---」
「呑み屋のほうで働いていたという孕みおんなのお鉄というのは、どこの口入れ屋からきたのかな?」
手代も岡っ引きも黙ってしまった。
「どうした---?」
「ちゃんとした口入れ屋を通して雇ったのではねえのでやす」
宇三かしぶしぶ口をわった。
「どういうことだ?」
古屋同心の声にはとげがあった。
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