庭番・倉地政之助の存念(4)
「両ご定番には、調練にはげむようにとのご叱声がご城代からでたそうです」
倉地政之助j満済(まずみ 46歳)はそれを調べるための出張りであったはずなのに、他人事のような口ぶりで吐きすてた。
「倉地うじは先刻、米の買占めは〔鹿島屋}と〔安松〕の2軒だから、打ちこわして凝らしめるようにと張り紙を西町奉行の佐野備後(守政親j まさちか 51歳 1100石)さまがお出しになったと申されたが---探索留め書きにそのようにお記しなされたか?」
首が横にふられた。
「さよな風評がながされていたということかな---?」
倉地がふくみ笑みをもらしながら頭(こうべ)を縦に深く動かした。
「備後さまを貶(おとしめ)ようとする動きがあった---と断じてよろしいか?」
また縦にうなずいた。
「そのことを相良侯(さがら 田沼意次 おきつぐ 67歳)には---?」
うなずき、しばし瞼(まぶた)を閉じた。
(やはり、そうか)
平蔵(へいぞう 40歳)は、鴻池(こうのいけ)をはじめとする大坂の大両替商どものしたたかさを見たおもいがした。
天明3年(1783),年、大坂の大両替商たちにご用金と称し、幕府の裏保証つきで金ぐりに難渋している藩に金を用立てることが交渉された。
両替商との折衝にあたったのが佐野備後守であった。
面従した両替商たちは佐野町奉行に、幕府が約定をたがえたら2軒の打ちこわしではすまないと、おどしをかけたのであった。
じっさい、4年後iの天明7年(1787)5月12日の打ちこわしとなって現われ、その火は江戸のほか各地にひろがった。
このとき、長谷川平蔵は先手・弓の第2組の組頭として出動・鎮圧を命じられたのだが、そのことは別の機会に。
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