将軍・家治(いえはる)、薨ず(2)
将軍・家治(いえはる 50歳)が実際に息を引きとったのが、深井雅海さんの推定どおり、天明6年(1786)8月25日の早暁だったとして、幕府首脳陣はなぜ、そのこと糊塗し公表を13日近くも遅らせたのであろうか。
それと、25日に登城して家治への見舞いを拒まれた田沼意次(おきつぐ 68歳)も、ことの異常さから事態の急変に気づいたはずだとおもう。
そうでなければ、いかに強要されようと、27日に老中職の依願退職文をしたためるはずがない。
(もっとも、『徳川実紀』の27日付の依願文が残っていたとしての推測だが---)
意次は観念したであろう。
(お上が身まかられた。予の忠誠を信じてくださる仁は、この城中にはもはやいない。ここは一歩引き、事態の流れを静観するしかあるまい)
意次の読みは浅かった、というより、自分への門閥派の反発とそねみが予想をはるか超えていたことを見あやまったというべきか。
意次の辞任後にあれこれ流布された田沼弾劾の文は、門閥派の意を受けてわざわざつくられたものが多かろうから、信用度はきわめて薄いとみてはいるのだが。
13日間の段階では、反田沼派――というか、一橋民部卿治済(はるさだ 35歳)の入念で巧緻な政治的扇唆(せんさ)に応じたご三家の尾張大納言宗睦(むねちか 54歳)、紀伊中納言治貞(はるさだ 59歳)、水戸宰相治保(はるもり 35歳)による、田沼派追いだしの手順はまだまとまらず、密議がつづけられていた期間とおもう。
それに対し田沼派は、一橋治済のよく,練られた裏工作を甘くみていたふしもある。
いや、三家は幕政に容喙(ようかい)してはならないという家康以来の暗黙の了解事項と老中の権力の重さに安住していたといえようか。
松平周防守康福(やすよし 68歳 石見・浜田藩主 7万6000石)の思惑は建前としては筋がとおっていたかもしれない。
しかし、老中衆の合議の結果であっても、将軍の決断が幕府の最高の意思であることもまた正しい。
老中が立ち会っていなかった臨終間際の家治の遺志であるといいつのられると、返す言葉がない。
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コメント
深井雅海さんの「天明末年における将軍実父一橋治済の政治的役割」の註(2)山田忠雄氏「田沼意次の失脚と天明末年の政治状況」をどうしても読みたくなってしましました。静岡大学の図書館で聞いてみると、インターネットで公開されているといいます。いろいろ、検索したのに、解らず、工事が終了して、業務再開した、静岡県立図書館で教えてもらいました。ciniiとかいうのがあって。オープンアクセスとかで、無料でみられるとか。世の中便利になったものです。早速、読ませていただきます。意次の新事実が読めるでしょうか。
投稿: 安池 | 2012.04.12 11:12