平蔵、捕盗のこと命ぜらる
以下の( )の中行は、飛ばしていただいて結構。
(食物・飲み物につづき、呼吸も困難になるというので、2月の今日――21日、喉を切開し、カニューレ(呼吸バイパス))を埋めた。これで4月21日までのはずであった余命はあと3ヶ月保つやもしれない。栄養の補給は24時間の点滴だから、筋力は徐々に下降している。痛みどめの薬財の精神への影響もある――パソコンに対しえるのはあと1ヶ月か1ヶ月半とみておこう。それまでに、おまさの救出ができれば幸いなのだが……)
天明7年(1787)6月19日の『続徳川実紀』――
○十九日 松平越中守定信(さだのぶ 30歳 白河藩主 11万石)、加判の列・上座命ぜられ、侍従に任ぜらる。よて此事、布衣以上話合の輩(やから)へ水野出羽守忠友(ただとも 53歳 沼津藩主 3万石 老中)をして伝へらる。
一橋民部卿治済(はるさだ 37歳)とご三家の尾張大納言宗睦(むねちか 55歳)、紀伊中納言治貞(はるさだ 60歳)、水戸宰相治保(はるもり 36歳)による工作が功を奏した結果の発令であった。
幕臣たちに告げさせられた水野忠友は、13年前に田沼意次(おきつぐ)の四男・金弥(きんや)を次女の婿に迎えて嫡男にすえていたが、意次の失脚の10日後には解縁していたほど変わり身をあざやかに演じていた。
水野老職とともに田沼派であったお側申次の横田筑後守準松(のりとし 54歳 9500石)が役を免ぜられ、菊の間縁詰となり、田沼派の最後の抵抗線がくずされてからまる1ヶ月目であった。
さらに1ヶ月ほどのちに、定信の盟友・本多弾正少弼忠籌(ただかず 49歳 泉藩主 1万5000石)が若年寄となり、定信の脇を固めた。
そうした中での9月19日の『続実記』――
○十九日 先手筒頭、長谷川平蔵宣以、捕盗の事命ぜらる。
晩秋から初春へかけての半年の火盗改メの助役(すけやく)である。
本役は、天明5年(1785)11月15日から任に就いている堀 帯刀秀隆(ひでたか 51歳 1500石)で、昨年から弓の1番手へ組替えしていた。
とりあえず半年のあいだであれ、弓の1番手と2番手が火盗改メに任につくことに異をとなえる先手の組頭もいたが、平蔵は老中首座の声がかりらしいとの風評がどからともなく伝わると、声は消えた。
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