2代目〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門
独立短篇[白浪看板] (『別冊小説新潮』 1965年7月号、のち新潮文庫『谷中・首ふり坂』に[看板]と改題して収録)で初登場。『鬼平犯科帳』文庫巻5[山吹屋お勝]では、密偵として顔を見せている。
[看板]が収録されている『谷中・首ふり坂』(新潮文庫)
年齢・容姿:[白浪看板]のときは40歳。大店の番頭風の物堅い扮装がよく似合う。
生国:不明。1歳のとき、遠江国城東郡浜松の旅籠〔なべや〕三郎兵衛方の軒下に捨て子されていたのを、初代〔夜兎〕の角右衛門にもらわれ、育てられた。
したがって、生国はとりあえず、静岡県としておく。
探索の発端:先代同様、
1.盗まれて難儀するものへは、手を出すまじきこと。
1.つとめをするとき、人を殺傷せぬこと。
1.女を手ごめにせぬこと。
の掟を守ってきたつもりなので、召し捕らえられることはなく、これも先代同様に、畳の上で往生できるとおもっていた。
それが、7年前、駿府のご城下の紙問屋でのお盗めのとき、同業の〔くちなわ〕の平十から預かった〔名草〕の綱六(参照:当サイトの〔名草〕の綱六の項)が、飯たき女の腕を切りおとしたことがわかり、一味を解散し、火盗改メへ自首して出、組頭の鬼平のはからいで密偵となった。
結末:盗人を廃業していたので刑罰はない。かわりに、仲間を売った狗(いぬ)と、盗人のだれかによって刺殺、制裁された。
つぶやき::現役時代の2代目〔夜兎〕の角右衛門のセリフ---「つまるところ、いま、この世の中で金と力のあるやつどもは、みんな泥棒と乞食の寄り集まりだ」が、作品[白浪看板]の主題とみる。
というのも、 大金の入った財布を拾った女乞食が、ネコババしないで落とし主へ渡してやり、「乞食は人さまの余りものを頂戴して生きているが、盗みはしない」と角右衛門にいう。
〔夜兎〕の角右衛門の金看板は、先に掲げた3カ条の掟だったが、それが配下によって破られたからには、もうお盗めをつづけてはゆけない、と一味を解散、自首したが、鬼平は、
「お前の看板は、盗人の見栄だ。乞食のかんばんとはだいぶに違う」
といいきる。
[白浪看板]が[看板]と改題されたゆえんでもあろう。
(参照: 〔山吹屋(やまぶきや)〕お勝 の項)
(参照: 〔関宿(せきやど)〕の利八 の項
(参照: 〔前砂(まいすな)〕の捨蔵 の項)
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コメント
ということは、二代目〔夜兎〕の角右衛門って、40歳前半で刺殺されたってわけですね。
いくら江戸時代とはいえ、ちょっと早すぎるんじゃないでしょうか。
そうか、伊三次も40歳前でしたねえ。
投稿: 加代子 | 2005.01.27 08:42
>加代子さん
[白浪看板]で、寛政元年(1789)に40歳の春を迎えた2代目〔夜兎〕の角右衛門が、女乞食の1件があって一味を解体、自首して出たとあり、[山吹屋お勝](寛政6年秋の事件)には、それから1年ほど人足寄場に入っていたと記述されています。
人足寄場の開設は寛政2年の初夏のころです。ですから、角右衛門と〔関宿〕の利八が人足寄場を出て密偵となったのは、寛政3年(1791)の夏とみておいていいのでは----。
それから3年ほど密偵として働き、利八はお勝(じつは、おしの)と駆け落ちし、角右衛門は翌7年(1795)に刺殺され、享年は46でした。
46なら、まあまあ、いいのでは?
伊三次の37歳は早すぎるといえますが。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.27 09:27
2代目夜兔の角右衛門が1才の時捨てられていた浜松の旅館[なべや]三郎兵衛は「東海道細見」の浜松宿に同じ名前の宿がありますが、この宿なのでしょうか。
「東海道細見」に載ってるほどの宿ですから、捨てるほうもこの宿なら育ててくれると願ったのでしょうね。
このとき泊まっていたのが先代の角右衛門で捨て子の顔を一目見て「わたしが貰いましょう」言ったそうです。
人の運命の不思議な縁とでも言いましょうか。
数多い密偵のなかで平蔵が自邸の庭に[角右衛門稲荷]と称して供養したのはこの人だけでしょう。
投稿: 靖酔 | 2005.01.27 09:58
>靖酔さん
岸井良衛さんの『五街道細見』(青蛙房)の東海道・浜松宿の旅籠のリストに載っているのは、お察しのように上の部のところです。
初代〔夜兎〕の角右衛門は、懐もあたたかく、江戸の超一流商業地である日本橋通1丁目に店を構えている足袋・股引問屋の主人という触れ込みで旅をしているのですから、格の高い宿屋をえらんで泊まる---と池波さんは考えたのですね。
長谷川平蔵が密偵の稲荷を屋敷の庭に祀ったという史実はありませんが、徳山五兵衛は日本左衛門を祀った徳山稲荷を本所・石原町の自邸に建てましたね。
投稿: ちゅうすけ | 2005.01.27 12:29