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2006.04.29

水谷(みずのや)家

祖:
陸奥国猿田の御所、故ありて同国岩城(いわき)の水谷(みずのや)にうつり住す。
このとき、下総国結城(ゆうき)の城主嗣なきにより、猿田が子孫を養ふ。
この故に結城にいたり五、六年を経、その後結城実子を設けるにより、館を結城の内に建、猿田をして居住せしめ、長沼十二郷、伊佐三十三郷を与ふ。
これにより、旧号を改めずして水谷と称し、三代居住す。
のち結城と水谷と一代相替りて称号とす。
その案にいわく、結城朝光は秀郷の後胤なり。
家伝にいわゆる猿田、その姓氏を詳にせず。しかりといへども、結城氏が養子となるといふにより、秀郷流に載す。
             以上、『寛政重修諸家譜』より。
のち。
正村・勝俊の兄弟が家康に通じ、その子の勝隆のとき、備中国松山城と5万石を賜る。

所領公収:
正村から4代後の勝美(かつよし)が31歳で若死したとき、他家へ養子していた勝時による後継の手当が遅れ、5万石は公収された。
しかし祖先の勲功を配慮、備中国川上郡に3000石を賜る。
その子・勝英のときに500石加増。

伊勢守勝久:
じつは京都・祇園の別当宝寿院行快の子。行快は、宿老・酒井忠勝(越前国小浜藩。12万3500石)孫・忠隆が弟・忠稠(ただしげ)に分与した毬山藩(1万石)の4男。

享保8年(1723)生。
寛延元年(1748)御目見。26歳。
宝暦2年(1752)養父の死去にともない家督。30歳。
〃 3年(1753)中奥の小姓。31歳。
〃 7年(1757)従5位下出羽守に叙任。35歳。
明和5年(1768)小姓番頭。46歳。
〃 8年(1771)西丸書院番頭。49歳。
安永3年(1774)長谷川平蔵宣以、入組。52歳。
天明7年(1787)2月10日辞職。65歳。
〃       8月3日致仕。

家紋:
三頭左巴

菩提寺:
高輪・泉岳寺

つぶやき:
写真などは無断で公開しないとの約束で、泉岳寺の墓所を見分したが、卒塔婆もなく、ここ4,5年墓参の気配を感じなかった。
ご子孫は、東横沿線で工場を経営されていたらしいが、ご当主の逝去とともにそれも閉鎖されたらしいとは、寺側の説明。

松山城を受領におもむいた大石内蔵助良雄の墓石と、墓域はことなるが同じ寺域にある、運命の不思議を感じた。

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