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2006.07.27

「今大岡」とはやされたが

「町奉行は檜(ひのき)舞台。火盗改メは田舎芝居」といわれた。
(当時のいい方では、火盗改メはおんでこ芝居……小屋がけ芝居)。

火盗改メがあつかうのは罪状が明らかな盗賊や博徒(ばくと)などの刑事犯だから、判決も手っとり早い。

南北の町奉行所は、それらしく広大な役所を構ええていたから、お頭(かしら)の自宅に取調べ室や法廷や留置場を併設している火盗改メは、くらべられるとどうしても貧弱にうつる。
白洲も三メートルに五メートルあるかなし。「田舎芝居」の評は仕方がなかった。
(小説の清水門外の役宅はあくまで、池波さんの便法だった)。

巨盗をつぎつぎに捕らえ、江戸庶民から「今大岡」とはやされていたといわれる長谷川組の与力・同心たちの組下には、それが憤懣(ふんまん)のタネでもあった。

「大岡」とは、いうまでもなくテレビトラマなどで知られている大岡越前守忠相(ただすけ)のことで、平蔵から70年ほど前の町奉行。
吉宗の享保の改革を補佐した官僚としてより、明察・頓知の名裁判官の名のほうが高い。その「大岡」の再来というわけ。

「次の町奉行は平蔵さま」と触れてあるく者もいた。いまでいう新聞辞令。これで持ちあげられた仁はたいてい失脚する。大望をつつみかくしている高級官僚や大物重役は、新聞辞令を巧みにかわす術にも通じている。

よくいえば天衣無縫、見方を変えると中間管理職の必須のこころえ……面従腹非が平蔵はできない。町奉行の椅子を強く望んでいることをかくそうとしなかった。

火盗改メ本役について2年目の寛政元年(1789)に、親しいと思っていた人へ洩らした。「おれは書物こそそれほど読んではいないが、町奉行火盗改メのことは、生まれつきのように悉知している。ちかごろの町奉行のやり方は見ていて歯がゆい」

先手組頭1500石高町奉行3000石高。が、平蔵とすれば収入の倍増をねらっての弁ではなく、桧舞台で腕をふるってみたかったのだ。

北の奉行は初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1200石)、南は山村信濃守良旺(たかあきら 500石)だった。

Photo_31山村信濃守は、平蔵の父:宣雄京都西町奉行に在職中に病没したときの後任者で、後始末をして江戸へ帰る平蔵の面倒をなにかとみてくれた人。
平蔵町奉行誹謗(ひぼう)を耳へ入れると、赤坂築地中ノ町(現・港区赤坂6丁目)の屋敷へ招いた。(山村家家紋=j丸の内一文字)
信濃守61歳、平蔵44歳。

「わたしは遠からず別の職へ移るでしょう。あとは平蔵どの、との声も城中にはあります。くれぐれもご留意を」
「うけたまわりました。したが、あれは南のことをいったのではありません。北も河内守どののご着任で面目一新と拝察」
「火盗と異なり、町奉行所にはしきたりやしがらみが多すぎましてな」

城中で「町奉行目付を経験していて家禄500石以上、爵位・従五位下がしきたり」との反対がでたことを、信濃守はあえて口にしなかった。
「瑕瑾(かきん)なきは人材にあらず」と信じていたからだ。

長谷川家400石、そして平蔵は目付の経験なし、従五位下より一ランク下の布衣(ほい)、しょせん町奉行の目はなかった。

つぶやき:
Tenkanki_1大岡忠相の政策企画者としての業績については、大石慎三郎先生の『大岡越前守忠相』(岩波新書)がもつともすくれているが、最近再読したばかりなのにいま手元にみつからない。
これにかわる著述てとして、同じく大石先生の『江戸転換期の群像』(東京新聞出版局 1982.4.23)の[大岡忠相と徳川光圀]をあげておく。

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コメント

城中で「町奉行は目付を経験していて家禄500石以上、爵位・従五位下がしきたり」との反対がでたことを、信濃守はあえて口にしなかった。
「瑕瑾(かきん)なきは人材にあらず」と信じていたからだ。

銕っぁんに言ってやりたや・・・
亜米利加では・・・
将軍は庶民の入れ札で決まり・・・
八百屋でも魚屋でも大工でも・・・
能力のある人間が人の上に立つそうで・・・と・・・

投稿: tommy | 2009.01.12 16:06

そうですね。
しかし、当時は閉鎖社会で、前例尊重---序列重視---てしたから。まあ、吉宗が役高制をとりいれて、ある程度は、才能のある者を抜擢はしていました。平蔵も、41歳で先手組頭に、田沼意次によつて抜擢されています。先手の組頭は、ふつうは、50歳、60歳からの、番方の最終コースなんですが。

投稿: ちゅうすけ | 2009.01.13 04:26

結構、封建制度とは言っても・・・

素人考えでしたが・・・
江戸時代は、ある程度の融通が利いたように感じていました。

田沼と言うと「悪人」と言うイメージでしたが、ひょとしたら・・・
「亜米利加人的能力思考ビジネスマン」タイプの人物だったのかもとも?今思っています。
by
オバマの就任式を控えて、日本人の「融通性」に期待している♂

投稿: tommy | 2009.01.18 04:43

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