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2006.09.28

水谷伊勢守と長谷川平蔵

「人間に尻尾がなくなったのは、ふりすぎてちぎれてしまったのです」

長谷川平蔵の機知による幕府の先手組頭の詰め所――江戸城内のツツジの間におきた爆笑とはうらはらに、63歳の水谷(みずのや)伊勢守勝久は、複雑な気持ちをかみしめていた。
(ふりすぎために、人間の尻尾はちぎれたって?)

時は天明6年(1786)の中秋。賄賂取りとして世評がのこる田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)は、この初秋に老中職を辞任、三卿のひとり、一橋治済(はるさだ)を中心として旧守家柄派が新内閣を組織すべく暗躍していた。

(あのときの平蔵のあれこそ、尻尾ちぎれの行為そのものではなかったのか)
平蔵の後ろ楯をもって任じてきた伊勢守だが、1年半前に平蔵がとった田沼意次へのご機嫌とりを、いまでも行きすぎと思っている。

150_1天明4年末、平蔵はその月の初めに西丸徒頭(かちかしら)へ登用されたばかりだった。
26日夜9時、八重洲河岸(現・東京駅近く)から出た火の手は、おりからのはげしい西北の風にあおられて広がっていた。

緊急時登城をとりやめと断った平蔵は、菊川(墨田区)の自宅から神田門内の老中・田沼の屋敷へじかに走り、「風の向きがよろしくないから、奥の方々は避難なさったほうがよろしかろう存じます。手前がご案内を……」
浜町の下屋敷までみちびいた。

平蔵は自宅を出るときに家の者へ炊きだしの握り飯を下屋敷へ運ぶようにいいつけ、道すがらに本町 1丁目の菓子舗〔鈴木越後〕方へ寄り、残っていた餅菓子をかきあつめて浜町へ届けよ、と申しつけた。

〔鈴木越後〕はそのころ江戸一番の菓子舗だった。
Photo_213
『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)

この店について、火盗改メとして平蔵の後任者に発令されたライヴァルの森山源五郎が書き残している。
彼が徒頭へ昇進したときの先任の同役全員を招いてのふるまい終日宴会のあと、持たせた手みやげはこの菓子舗のもので、1人前1両近くもしたと。

〔鈴木越後〕の折りにしなかったらあとで悪口をいわれ、いじめられるとも。

1両を、池波正太郎さんは『鬼平犯科帳』執筆の終わりごろには今の20万円に換算している。

さて、平蔵の誘導で無事に浜町の下屋敷へ避難した女性たちは、〔鈴木越後〕の高価な甘味で心を落ちつけた。
 平蔵の前例のない処置を、田沼老中が「気がきいている」と感じたらしいとの記録がある。

この1年半後に平蔵は、番方(武官)としては最高位に近い先手組頭へ異例の抜擢されたのだから、効果があったことは確かだ。

火付盗賊改メとして縦横に腕をふるうには、なにをさておいても、先手組頭の席の入手が先決なのだ。火盗改メは先手組頭の中から選ばれるのだから。

前例にしばられた考え方をするほかの幕臣たちの多くは、平蔵の後ろ楯の水谷伊勢守のように「見え見えの売り込み」とした。それは彼らの平蔵評――「山師」にもなった。

注:この文章は、先般絶版となった拙著『江戸の中間管理職--長谷川平蔵』(文春ネスコ刊 2000.4.28 )の[まえがきに代えて]の一部である。

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