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2006.09.27

〔吉間(よしま)〕の仁三郎・追記

文庫巻4-4[血闘]で、おまさを密偵と見破った〔吉間(よしま)〕の仁三郎については、すでに、常陸国真壁郡吉間村の出身として取りあげている。

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そのときは現行の町名を明野町としたが、その後、同町が近隣の町村と大合併し、筑西市となったことを知ったので、それも訂正した。

確認のために筑西市のホームページにアクセス、明野図書館館報「花さき山」で、三輪 巴館長のお名前が目にとまった。学識が深く、利用者のためには調べものもいとわない方とお見受けしたので、思いついて、吉間村が明野町へ包括された経緯をお尋ねしてみた。

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ブログの記録は、データが手に入った都度々々、順次つけくわえてこそ、充実し、後続の士の道しるべとなる。

三輪館長は、お忙しいにもかかわらず、データをそろえて送ってきてくださった。

『角川 日本地名大辞典8 茨城県』(昭和58年) もと西に芦間という入江があったという。芦と吉は同音であるためこの地名になったという(杉山私記)。

吉田東伍博士『増補 大日本地名辞書 第6巻 坂東』(昭和61年 冨山房) 今村田村と改む。(略)南北争乱の際に聞こえし、村田城址は、吉間に伝説せらる。

村田村となったのは、明治22年(1889)の市町村制施行の5村1新田の合併による。
明野町の成立は昭和29年(1954)11月3日。

『茨城県の地名 日本歴史地名大系 8』(1998年 平凡社) 元和9年(1623)には藩主水谷氏の検地が行われ、同年2月の水野谷様御代下館領村々村高ならびに名主名前控(中村家文書)に村高1,098.185石とある。寛永16年(1667)の水谷氏転封に伴い天領---(略)。

や、これは凄い発見!

この水谷(みずのや)が転封した先が備中・松山(5万石。高梁市)なら、同藩に仕えていた馬廻役・三原七郎右衛門(100石)が水谷家の改易とともに失職、そのむすめ長谷川平蔵宣雄(鬼平の父親)のである。
また、3,000石の幕臣となっていた後裔の伊勢守勝久は、西丸書院番士として出仕した平蔵宣以番頭(ばんがしら)で、平蔵の引き立て役でもあった。

この、吉間村を領していた水谷(みずのや)家が、長谷川平蔵と関係が深い水谷かどうか、再度探索する必要ががある。

もちろん、〔吉間〕の仁三郎が育ったときには、水谷家は真壁郡を去り、村は旗本・飯塚帯刀、井上越中守、石巻栄吉らがそれぞれ、520石余、507石余、75石余を知行しており、さらに安藤伝蔵支配が93石余、三所神社領5石となっていた。

仁三郎の家がこれらのいずれの支配下にあったかは調べえうるべくもない。

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