さらに6万両の上納命令
12月10,11日の記事で、天明6年(1786)8月16日、クーデターにでもあったように突如、老中をを解任・蟄居を命じられた田沼意次は、つづいて2万石の召し上げを通告された。
翌7年10月2日には、さらに所領の地2万7000石を収公、相良藩を上知、特別のおぼしめしにより、意次の嫡孫・意明(おきあき このとき15歳)へ、陸奥国信夫、越後国頚城の両郡において1万石を下されると。
この領地は、公称の1万石もの実収はない痩せ地だったらしい。
12月8日の記事では、相良城の請い取り・破却のとき、なんのためか1万3000両もが公収された不審を指摘しておいた。
天明8年(1788)7月24日、田沼意次卒(しゅっ)す。70歳。耆山良英隆興院。葬地・駒込の勝林寺。
『寛政重修諸家譜』の意明の項。
天明8年9月24日、川々普請御用途のため金6万両上納すべき旨台命かうぶる。
知行地1石の実収は換算すると1両といわれている。
所領は家臣たちの俸禄にもあてなければならないことだし、100両の余分の金もあるまいに、6万両!
意明をはじめ家臣とその家族一同に、死ね! と命じているに等しい。
弱小藩として、家老たちが、この結末をどうつけたかは、『寛政譜』には記録されていない。おそらく、その記録はどこにもあるまい。『相良町史』も、すでに他領の藩主となった意明については、当然、記していない。
平岩弓枝さんも、田沼意次を主人公にすえた秀作『魚の棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)でも触れていない。
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コメント
権力の汚さ
世の中の悪いことが全て田沼意次のせい
でもあるまいに、溺れる犬を叩くのは
やはり、民衆の不平不満が将軍家に普及
しないためにやったことでしょう。
何時の世にも憎まれ者はいるもの、政権を
維持するためには手段を選ばないのが世の
習いですかね。
投稿: edoaruki | 2006.12.12 19:23