親族縁座、義を絶ち縁を絶ち
12月9日に掲げた田沼意次の上奏文の中に、
「しかるに親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました」
という、ただならぬ文言がある。
憤りをぶつけられている一人は、意次とともに老中職をつとめていた松平(松井)周防守康福(やすよし 浜田藩主。6万石)とおもわれる。次女が意次の嫡男で若年寄のときに刺された意知(おきとも)の室として嫁いだが、意次逼塞後、実家へ戻った。
相良を上知され、代わりに陸奥国信夫、越後国頚城の両郡において1万石を下された意次の嫡孫・意明(おきあき このとき15歳)の実母ではない。
同じく田沼にひきたてられた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)は、意次の次男・意正を養子に迎えておきながら、一件後、縁を解消、田沼へ帰らせている。なんと、水野の『寛政譜』からはその事実も抹消。
意次の継室の実家・黒沢家は事をいいたてられて追放になっている。
ほかにも、『寛政譜』にあらわれていない無道の処置もあると想像できる。
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