残った家臣の禄高
田沼意次の嫡孫・意明(おきあき 15歳)が、陸奥国信夫、越後国頚城の両郡においての1万石の減知されたことは、すでに触れた。
5万7000石から1万石---6分の1に近い減知である。
当然、家臣の員数は減らさざるをえない。
家臣の多くは、意次の急激な加恩につりあう形でふくらんだ371人だった。彼らは入れ札の形で整理された。
(天明7年 1787)12月23日、52名、明けて天明8年(1788)正月9日に69名、正月13日47名、同19日に55名が相次いで御暇を申し渡され、それぞれに手当てを受けて去っていった。(『相良町史 通史編 上』[相良町 1993.8.28])。
171名である。退職手当については、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2006/12/post_746d.html
転封にしたがった員数を、禄高からいって100人以下と推量してみた
。
河原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、「板沢武雄氏の小稿[俄大名の家臣団](『日本歴史』第31号)に、意次が失脚して、孫の意明が一万石に減封されたことについて『雑記』という一史料を掲げ、
「
一、田沼家一万石二被仰付此度左之通ニ相成候由。
百石家老 倉地金太夫
潮田由勝
七十石用人 井上直記
内藤奥右衛門
深谷一郎右衛門
五十石物頭 楠木半七郎
磯部十郎兵衛
本間儀左衛門
五十石留守居 川村長左衛門
目付 三人
給人 三人
取次 三人
諸士分百六、七十人相残り申候由」
予想よりも多くの家臣が残ったのは、意次への報恩と敬意、意明への忠誠心はうたがわないが、禄高を5分の1以下で了承したからでもあろう。
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コメント
本日は『文祥堂フォーラム』お疲れさまでした。
あっという間の2時間でした。
今日のお話を聞いて、このブログの内容が、いっそう理解出来るようになった気がします。ありがとうございました!
投稿: ぴーせん | 2006.12.14 01:02
『文祥堂フォーラム』、大変楽しく聞かせていただきました。欲を申せば、前半の田村意次の話しを切り詰め、本題の長谷川平蔵の話しをもう少し聞きたかった。
投稿: 亀井繁男 | 2006.12.14 06:01
>ひーせんさん
いらしていたんですね。
話の調子のレベルをどの程度に据えるかで迷いました。
だって、お聞きになるほうがぴーせんさんのようなハイレベルの方から、町のおかみさん、単なる吉右衛門さんのファンって方までさまざさとお見受けしたので。
話していた、絶えず軸がぶれているのを自分でも感じていました。
>亀井繁男さん
おっしゃるとおりでした。
ただ、田沼と定信の対立関係は、長谷川平蔵という不思議な男の存在を生むことになったと、最近、しきりに思うようになりまして。
このあいだまでは、長谷川平蔵宣以と松平左金吾定寅の対立とふんでいたのです。平蔵が死ぬと、待ってましたとばかりに平蔵の組---弓の2番手の組頭に変わってきて、平蔵色の一掃をはかるやり方に異常なものを感じていましたが、それが定信の意次にたいするやり方と似ていたものですから。
亀井繁男さんのようなお方には、失礼なスピーチとなったとおもい、反省しています。
投稿: ちゅうすけ | 2006.12.14 07:18