寛政重修諸家譜(10)
徳川幕府が14年の歳月をかけた『寛政重修諸家譜』だからといって、100パーセント正確とはかぎらない。
栄進舎版、完成会版が活字化するときに、お家流で筆書きされた文章を読み間ちがいしているかもしれない。
そもそも、諸家が上呈した素稿が誤記したり、意図的に改竄することもないとはいえない。
鬼平=長谷川平蔵宣以(のぶため)の父・宣雄で検証してみよう。
宣雄の『諸家譜』の項を掲げる。
火盗改メを勤めた記述が脱落している。
明和8年(1771)10月17日から冬場の加役を発令され、翌9年春の本役・中野監物清方の病死(50歳)により、本役を引きついだ。
それで、2月29日、目黒・行人坂から出火して江戸の半分近くを灰燼した、いわゆる行人坂の大火の放火犯人を検挙する大手柄をたてた。その褒章の形で、京都西町奉行へ栄転ということがあったのに、この一連のことがすべて欠落しているのである。
辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した素稿を調べてみると、きれいに省略している。
意図は、火盗改メのような大きな支出をともなう役職は、亡父・宣以で十分すぎると考えたからであろう。
つまり、火盗改メの家系と見られたくなかったのだ。
ま、それも道理と見逃しておこう。
検討を要するのは、『寛政譜』の享年の55歳と没年月日、それと、彼地(京都)千本の華光寺に葬るの文言。
辰蔵宣義側の素稿は、
同(安永)ニ癸己年六月廿ニ日 京都於御役宅卒。
齢五十六歳 京都千本通葬 華光寺---
となっており、享年のほかは『寛政譜』にそのまま採用されている。
上の記述のとおりに解すると、宣雄の墓は、千本出水の華光寺に現存していることになる。
だからこそ、『鬼平犯科帳』』巻3に収録の[艶婦の毒]Iで、長谷川平蔵が上京、黒羽織に袴の正装で、
行先は千本出水(せんぼんでみず)、七番町にある華光寺(けこうじ)である。この寺は蓮金山と号し、日蓮宗・妙顕寺派の末寺で、平蔵の父・宣雄がここにねむっているのだ。p81 新装p66
(現在の華光寺本堂)
長谷川本家の末・長谷川雅敏さんが葬儀をとりおこなった華光寺から取り寄せた記録のコピーをいただいている。
入寂したのは、安永2年(1773)6月17日未刻(ひつじのこく 午後2時)。64歳。
葬儀は6月23日酉刻(とりのこく 午後6時)に僧正解師に引導されたのち、僧14人の読経に送られて出柩し、逢坂で火葬、といったことが記されている。
寺側の解説によると、葬儀は執りおこなったが、遺骨は江戸へ持ち帰られたので墓域はないと。
ほぼ20年後の寛政5年(1793)に鬼平が華光寺へ墓参に行ったのは小説の構成として、死亡日が6月17日と22日と2つあるのは、後者は公の諸手続きを終えた公式の命日で、前者がほんとうの他界日とみたい。
華光寺のいうとおり、火葬後、遺骨は江戸の菩提寺である戒行寺の墓へ改葬されたのであろう。
| 固定リンク
「003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事
- 備中守宣雄、着任(6)(2009.09.07)
- 目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)(2009.07.03)
- 田中城の攻防(3)(2007.06.03)
- 平蔵宣雄の後ろ楯(13)(2008.06.28)
- 養女のすすめ(10)(2007.10.23)
コメント
辰蔵宣義が上呈した『素稿』では、華光寺の「華」の字が脱落しています。
ところが、『寛政譜』ではちゃんと華光寺に直っています。
これは、編繍過程で脱字と判断されて、長谷川家へ問い合わせて埋めたのでしようね。
編繍グループ、しっかりしてます。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.14 09:01
宣雄の法号は、華光寺の記録紙では、
泰雲院殿朝散大夫前備中守夏山日晴大居士
戒行寺の霊位簿では、
泰雲院殿夏山日晴大居士
まあ、朝散大夫前備中守は生前の官位だから、冥土までつけていくわけにはいかないでしょうが、従五位下ですから、院殿 大居士がとうぜん。
でも、戒名は、同じ日蓮宗同士なので、戒行寺は華光寺のものを受け入れたんですね。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.14 09:11
公の諸手続きのためとはいえ、当時の6月に6日も後とは、その間誰か苦労した人がいたことでしょうねえ。本論とは外れたコメントでスイマセン。
投稿: パルシェの枯木 | 2007.04.14 11:17
宣雄は西町奉行でした。で、この場合は、東町奉行が確認と辞表受け取りにくるわけです。
このときの東町奉行は、小林伊予守でした。
伊予が死の床ょを改めようとしたとき、遮ったのが平蔵宣以だつたという記録もあります。
なぜ、平蔵が遮ったのかは謎です。
これが6日間の謎の一つ。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.14 19:05