「もう聞くことはないのか!」
佐藤隆介さんは、ある時期、池波さんにぴったりつき添って、その言行を書き留めた貴重な人である。
池波ファンにとっては、池波さんの素顔に、もう一歩近づく手だてといえようか。
ちょっとオーヴァーにいうと、辞書製作者の碩学サミュエル・ジョンソンと、その言行を記録したジェイムズ・ボズウェルの関係に似ている。
佐藤隆介さんのお仕事の一つに『男のリズム』(角川文庫 1979.12.20)の巻末解説がある。
いや、佐藤さんは、文庫になった池波さんの小説やエッセイの多くに、丁寧な解説文を寄せているから、とりたてていうほどのことはないのだが、『男のリズム』のそれは、ちょっと調子が違う。
冒頭に、自分の生の声をぶつけているのだ。
電車の座席で、マンガ雑誌を読みふけっている若者に、
「きみは明日死ぬかもしれないんだよ---」
と言ってみてやりたい衝動をおぼえるというのだ。
人間は、生まれたときから死へ向かって日々歩いている---が、池波哲学の一つであることは、ファンならみんな知っている。
佐藤さんは、それをじかに池波さんの口から聞いている生き証人である。
佐藤さんの哲学の一部になっているから、若者に言ってやりたくもなるのであろう。
『男のリズム』の[最後の目標]という章に、
私の師匠・長谷川伸(はせがわしん)は、生前、よく私に、
「君、もうすぐに、ぼくはあの世へ行っちまうんだよ」
と、いわれた。
これは、御自分が生きている間に、もっと聞きたいことはないのか、と、いうことなのだ。
昭和38年6月11日に長谷川伸師が逝き、すぐあとの追悼号ともいえる『大衆文芸』(1963年8月号)に、池波さんは[先生の声]と題し、こうも書いている。
「君ねえ、ぼくなんか、いつ、ひょっくりと死ぬかも知れないんだよ。聞くことがあるんなら今のうちだよ」
にこにこと言って下さっているうちは、よかったが、対座して話題につきると、
「もう聞くことはないのか!」
きびしく、言われた。
これを書いたとき、池波さんは40歳。長谷川伸師の享年79。
40歳になっても教えを乞える師がいるなんて、人生の幸せの時ともいえ、うらやましい。
長谷川伸という師は、自分の体験したことであれ、温めている小説のテーマであれ、門下の人には惜しむことなく明かしたと、エッセイ『石瓦混肴』にある。
長谷川伸師が聖路加病院の病室で亡くなったとき、池波さんは玄関ホールまではかけつけたが、病室へは、あえて入らなかったという。
師の尊顔は、生き生きしていたときの思い出だけで十分---と決めていたからだと。
そうそう、J・ボズウェルが書きとめたS・ジョンソンのこんな言葉が、『オクスフォード引用句辞典』に入っていて、英語圏の人はよく、引用する。
「ロンドンに飽きたら、人生に飽きたに等しい」
ぼくも、〔ロンドン〕を〔『鬼平犯科帳』〕に置き換えて、ときどき使っている。
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コメント
西尾先生から「もう聞くことはないのか!」といわれているようです。
私は「江戸時代の江戸」が好きで、鬼平熱愛倶楽部では、一人では得られない「江戸のエキス」といったものを味わっています。小説家ではないので趣味の枠を出ませんが、西尾先生という師がいることを、あらためて深く感謝しています。
最近読んだ本に、「ある程度の歳になると人生はそう愉しいものじゃなくなる・・・体の働きも頭の働きも弱って、せめて両方が同時に終わってくれればいいなどと願うくらいしかすることがなくなるようなことにもなるだろう。そんなことになっても(・・・)ば、なんとかやっていける」と言うせりふがあり、(ローレンス・ブロック「すべては死にゆく」)感じるところがあったのですが、(・・・)に入る言葉を、師としての先生から得られれば、と思っているこのごろです。
投稿: 足立の山勝 | 2007.04.02 20:23
池波さんの「人間は生まれた時から死に向かって日々歩いている」という言葉を読み、今読んでいる「編集者 斉藤十一」で十一の言葉「人間は生まれながらに死刑囚だろ」がひらめきました。
斉藤十一は新潮社の奥の院と呼ばれた人で「新潮」「藝術新潮」の編集、「週間新潮」と「フォーカス」を立ち上げた人です。
池波さんと面識があったことはなかったようですが、
おそらく池波さんはご存知だったと推察してます。
投稿: 靖酔 | 2007.04.04 16:44
>足立の山勝さん
そのローレンス・プロツク、マット・スカダーものでしょうか? それともぼくは読んだことがないのですが、英国もの?
マット・スカダーだと、「エレイン・マーテルがいてくれれば」かも。
フリーに考えると、「家族がいてくれれば」。
ぼくの場合は「読むに足る本があれば」。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.04 18:44
ちゅうすけ様
おっしゃるとおり我が愛するマット・スタガ-。もちろん舞台はニューヨーク。
そして、まさしくエレインへの言葉です。
ところが、訳者の田口俊樹さんも書いていましたが、読んでいて「あれ!
これは最終作では?」と思わせるのです。
エド・マクベインが逝ってさみしいのにです。
私も「好きな本があれば」に落ち着きそうですね。
投稿: 足立の山勝 | 2007.04.04 21:17
先生と足立の山勝さんの対話羨ましいですね。
その世界に入り込めないのが悔しいです。
でもブログでこんな対話が出来るのが、ブログの良さ、存在価値なんでしょうね。
会話に入れなくて残念。
投稿: 靖酔 | 2007.04.05 00:05
>足立の山勝さん
田口俊樹さんねえ。
早川書房の地下のグリルでなにかのパーティのとき、山本やよいさんに紹介されたことがあります。
名刺もどこかにしまってあるはず。
ローレンス・プロックのことで手紙をだして、もらった返事もあるはず。もっとも、マット・スカダーを「マッド」と書いたらしく、「マット」ですと、訂正されました。
濁点1コですが、えらい違い。「マット」はマチュウ、マチュウスの略だったかな。
「マッド」だと、狂人になってしまう(笑)。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.05 03:41
ちゅうすけさんは、翻訳家でもあられるのでした。
この事に接したのは、司馬遼太郎の『ニューヨーク散歩』~街道をゆく39~(朝日文庫58p)の中で、『アメリカのユダヤ人』(ジェイムズ・ヤフェ著)の翻訳者としての文章を目にした時でした。
このため、すっかり気持ちが乗ってニューヨークが楽しめたのでした。
投稿: 足立の山勝 | 2007.04.06 20:31
ジェイムズ・ヤッフェは、ミステリ作家でもあります。
[ブロンクスのママ]シリーズという、ジュウーイッシュ・ママの安楽イス探偵ものがあります。
『アメリカのユダヤ人』は、古代宗教が現代社会に入ると、リフォーム派、コンサーヴァティヴ派(保守派)、オーソドックス派に分れるということを説明して、目を開かれました。
生活戒律をどの程度守るか、の違いです。
あるいは、キリスト教でいうとカソリックとプロテスタントかな。
イザヤ・ベンダサン(山本七郎さん)が、古代ユダヤ教典に固執していらしたので、それではビジスマンと会話が通じませんよ---というつもりで翻訳しました。
商社マンの教科書になったようです。
投稿: ちゅうすけ | 2007.04.08 03:28