平蔵宣雄の『論語』学習
2007年4月19日[寛政重修諸家譜(15)]に、平蔵宣雄(のぶお)は、4歳年長で病気がちの6代目当主・宣尹(のぶただ)のスペア要員として育てられた、と書いておいた。
交替要員としていつ表舞台に立っても、それなりのプレイができるようにも教育された。
儒学塾へも、8歳のときから、権太郎(宣尹 のぶただ の幼名。『鬼平犯科帳』では元服名の修理)につれられて通った。もっとも、病身な権太郎は欠席がちであったが。
一方の平蔵(宣雄の幼名。のち相続名となる)は、皆勤に近かったが、帰宅後には、母の牟弥(むね)のおさらいの講義が待っていた。
牟弥は、 『論語』も一日に一句しかさらえなかったが、その解義は、独特であった。
子曰く、弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち悌(てい)、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行って余力あれば則ち以って文を学べ。
「平どのよ。腹の底の底まで沈めて心得ておくのですよ、よろしいですか。侍の子たる者は、家にあっては親に孝、元服したら恥をかかないように気くばりし、約束したことはかならず守らねばなりませぬ。ですからよく考えて、できないことは約束しません。よろしいですか、約束したほうは忘れてしまっていても、されたほうはいつまでも覚えているものなのです。約束をしばしば忘れる侍は、信用を落とします。多くの人と親しくしなりたかったら、どんなに小さな約束も守りなさい。親しくなる人にも、約束を守る人を選びなさい」
子曰く、君子重からざれば威あらず。学べば固(こ)ならず。忠信を主とし、己(おのれ)に如かざる者を友とするなかれ。過ちては改むるに憚(はば)かること勿(なか)れ。
「侍の子は、言行がおっちょこちょいに見えてはなりませぬ。侍は庶民の手本になるべく生まれています。それが、おっちょこちょいでは下じもから軽蔑されます。学問も意見も、片意地を張っていては嫌われるばかりです。
自分の考えは、なるべく、人よりあとに口にしなさい。できれば、誰某さんと何某さんのご意見に賛成ですが、付言させていただくと---というようにいいなさい。自分とくらべてみて、怠けぐせの強い人を親友にしてはなりませぬ。平どのがどんなにまごころをもって付き合っても裏切られるからです。もし、過失をしたり言い過ぎたと気づいたら、すぐに訂正し、あやまりなさい。あとで気づいたのなら、手紙であやまりなさい」
子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず。人を知らざるを患うるなり。
「平どの。あなたの孝行ぶりや賢さ、発想が豊かなことは、この母者がいちばんよくわかっています。それは、あなたが私の子だからです。いつもそばにいて見ていますからね。しかし、他の人は、あなたをいつもいつも見ているわけではありませぬ。世間の人は、平どのにとくべつに関心があるわけではありませんからね。自分のよさが認められないことを、くよくよ悩んだり、ぶつぶつ不平を言ってもどうなるものではありませぬ。それよりも、付き合いたいとおもっている方のことをもっと知ってあげるようにすると、末長いお付き合いになるはずです」
【付言】 『論語』の解義には、宮崎市定さん『現代語訳 論語』 (岩波現代文庫 2000.5.16)を参考にさせていただいた。
【ひとりごと】このプログが、鬼平ファンの話題としてひろがらないことを患えても仕方がないか。いや、それとこれとは違う。このブログの場合は、PRのやり方に欠陥があるのだ。
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コメント
「論語」は学生時代に少し読んだだけで、読みにくい難しいという印象だけしか残っておりません。
宮崎市定さんの「現代語訳論語」は谷沢永一さんが
「初めて現代人の心臓の鼓動に合う、現代語訳の論語』と絶賛されている程に現代に古典をよみがえらせているのですね。
牟弥の論語の解釈はこの本を参考にしたそうですが
鬼平を勉強する上で論語は必読なのでしょうか。
一口に鬼平ファンといっても、さまざまな層があると思います。
小説から入った人、映画からテレビからアニメからと
好みの程はいろいろです。
「who's who」のように小説の鬼平から史実の鬼平へ、そして江戸幕府の体制にまでと研究が発展するもの。
多くの鬼平ファンの中には、このような高度なブログを待ち望んで毎日読んでいるファンも多いと思います。(アクセス数の多さを見ても)
。
投稿: みやこのお豊 | 2007.05.23 01:03
鬼平を創造するにあたって、池波さんが『論語』によっかどうかは、知りません。
しかし、あのころには湯島聖堂もあり、武士は庶民の手本たれ、とか、行政官としての心得として、幕臣も『論語』のほか、四書五経はたしなんだとおもいますよ。
君子は義に喩(さと)り、小人は利に喩る
(諸君は正義に敏感であってほしい。利益には鈍感な方がよい)
とか、
子は温(おだ)やかにして厲(はげ)しく、威ありて猛(たけ)からず、恭にして安し
(柔和であると同時に激しい気性を持ち、威厳があるが恐ろしい感じがなく、丁寧を極めながらゆとりがあった)
ふだんの鬼平は、日だまりの猫---みたいという描写がありますね。
とにかく、宣雄によって、長谷川家は、ヒラの番方から役付きへ出世したわけです。そのおかげで、鬼平=平蔵宣以も、辰蔵宣義も役付になれました。
とすると、池波さんがあまりやっていない宣雄の造形をしっかりやっておく必要があるわけです。
投稿: ちゅうすけ | 2007.05.23 07:10