組頭、能勢十次郎頼種
2007年5月5日に、表を掲示し、 [宣雄、西丸書院番士時代の上役]として、番頭の3人---
柴田丹波守康完(やすのり 5500石)、
仙石丹波守久近(ひさちか 2000石)、
岡部伊賀守長晧(ながつぐ 廩米3000俵)
組(与)頭の2人---
松平新次郎定為(さただめ 1000石)
能勢十次郎頼種(よりたね 600石)
をあげ、それぞれが、長谷川家---いや、宣雄の後ろ楯となったかどうかを検討したつもりであったが、うっかり、能勢十次郎頼種を吟味し忘れてした。
墨田区本所4丁目に、能勢妙見山という日蓮宗の寺院があり、北辰一刀流の千葉周作も信心していたと標識に書かれている。
嘉永4年(1851)の近江屋板切絵図には本所横川町の西側に、能勢惣左衛門・妙見山と記された屋敷がある。『寛政譜』の能勢13家の中に、惣右衛門(1500石)はいるが惣左衛門はいない。
『江戸幕府旗本人名事典 三』(原書房 1989.8.30)に収録の能勢17家の中に、惣右衛門家の主が天保のころに惣左衛門と変えた記述が見つかった。もっとも、屋敷は虎ノ門外。その後、本所に屋敷替えしたのであろう。
赤○=能勢惣左衛門と妙見山
聞くところでは、本家(4000余石)の邸内にあったものを移したと。そのもとは、鎌倉幕府のころから摂津国(大阪府)能勢郡(のせこおり)を領していた能勢家が祀っていたものを、徳川の幕臣となってから江戸へ移鎮。
すなわち、能勢十次郎頼種の本家は上のとおり。十次郎頼種の家は、2代前が分家からさらに分家している。
次に掲げる一覧性の『寛政譜』は、5ページのうちの第2ページ目である。
家柄の由緒は古いが、なにしろ上方の出だから、幕臣の中でも異質といえ、政治力は強くはなかったろろとみる。
それを裏づけるかのように、十次郎頼種が西丸書院番の組(与)頭の席を手にいれたのは54歳の時、番方(武官系)での終着ポストといわれている西丸の先手(鉄砲)組の組頭(1500石)にたどりついた時には、68歳に達していた。75歳で歿するまでその職にあった。
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