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2007.06.07

佐野大学為成

(父上にいわれて、武鑑で、佐野どのの曾祖父さま、祖父さまの職歴を、手前が調べました)
銕三郎(のちの平蔵宣以=小説の鬼平)は、いくどもそういいかけて、父・宣雄(のぶお)と、他言はしないと約束したことを思い出し、口を結んだ。

それほど、佐野与八郎政親(まさちか)の人柄は、14歳になったばかりの銕三郎を安心させ、柔らかだった。

「過日、本多侯(伯耆守正珍 まさよし 駿州・田中藩の元藩主)の中屋敷で、小十人組頭の長老、佐野大学為成(ためなり)どのとは、遠くたどれば、どこかで交わる---と申されたが」
Photo_371「はい。出自はともに、下野(しもつけ)国の佐野であることは間違いないと存じます。なれど、わが家の家紋は丸に剣木瓜です。あちらは鎧蝶。永いあいだに、それぞれが土着、家紋も変えたとおもわれます」
「なるほど。剣と鎧では、同じ武具でも、まるで違いますな」
Photo_372「親戚づきあいも致してはおりませぬ」
「なぜに?」
「さあ。しいて申せば、あちらの先々代と先代に、やや、酒乱の気味があったのを、わが祖父・政春(まさはる)が避けたのかと。その酒癖を案じられた有徳院(八代将軍・吉宗)さまが、紀伊の家臣・長谷川半兵衛どの---あ、こちらさまとは?」
「いや。遠くたどっても、つながりませぬ。はっははは」
「それであれば---。その長谷川どのから養子に入られたのが、いまの為成どの。したがって、酒乱の血筋は断たれたはずです」
「そういえば、組頭新任の宴会でも、召し上がられなんだような。ひとえに、先手組頭を願っておられるとか」

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幕臣で両番(小姓組と書院番)の家柄はもちろん、小十人組、新番組、大番組といった番方(武官系)の者は、組頭の次に、先手組頭を期待するのは、番方としての出世双六の「上がり」に近いからである。
先手組頭は1500石高、小十人組頭は1000石高と、吉宗の時に明文化された。
有能な士を抜擢する目的であった。

佐野大学為成のように、540石の家禄のものが小十人組頭になると、1000石高となり、家禄540石との差額---460石が足(たし)高として補填される。
その意味は、1000石高にふさわしい武装・戦闘員の備えをせよ---というのは表向きの口実で、ありようは、実収増、やる気の拍車。

番方の最高役高は、1500石の先手組頭だった。
そのポストは、
・弓組頭---10人
・鉄砲(つつ)組頭---20人
・西丸・鉄砲組頭---4人

しかも高齢になってから発令されがちだった。
また、その先のポストがきわめて少なかった。
それゆえ、そうとうな老齢になっても辞職しなかった。
「先手組頭は、番方じじィの捨てどころ」と、幕臣間でいわれたほどである。

で、先手組頭をねらう旗本たちの噂は、何番組の組頭が危篤らしい---と、まるでその死を待っているかのように、非情なものだった。
組頭の死による空席を待っているうちに、自分が死の床についてしまいかねないあせりぶりは、はたから見ると滑稽というか、人間喜劇的でもあった。

紀州藩主出身の将軍・吉宗は、8年前の宝永元年(1751)、68歳で、前立腺肥大による尿毒症を患い、西丸で歿していた。
しかし、紀州出身組には、田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、加納遠江(とおとうみの)守久通(ひさみち)・久堅(ひさかた)親子という希望の星がいた。

宝永9年(1759)で62歳に達した佐野大学為成は、希望をすててはいなかった。
5年後の明和元年9月に76歳の長寿をまっとうして没した、先手・鉄砲(つつ)組11番手の組頭・水野藤九郎忠鄰(ただちか 250俵)の後任に発令された。
為成は67歳になっていた。

そして、翌明和2年4月の卒した。胃の疾患であった。
あれほど願っていた先手組頭の在任は、半年で終わった。

葬儀は池上本門寺で執行された。養家先の宗派を無視、日蓮宗に改めたのである。表の飄々とた顔とは別に、胸の内には強情を秘めていたと思われる。

参列した平蔵宣雄と佐野与八郎政親は、肩を並べて帰りながら、
「念願の先手組頭を手にいれられたのだから、もって瞑すべしでしょうな」
「念願がかなわないあいだは、生を延(なが)びかせられるということかも」

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コメント

かねてから、『寛政譜』の全ページ読破を予定しているのですが、ごたごたと雑事にふりまわされて未着手です。

それで、なにを探索したいかというと、今日あげた紀州閥、今川グループ、北条派、足利勢---などをグルーピングできないかと。武田系は『寛政譜』にほぼまとめられているのですが。

投稿: ちゅうすむ | 2007.06.07 08:38

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