石谷備後守清昌(2)
学友の一人---I氏は、大学を定年後、住まいのある愛知県の『年金者大学』で、受け持っている江戸史の講座の講義録を送ってくれた。
石谷備前守清昌(きよまさ)の発見は、氏の講義録によるところが大きい。
ついては、氏の了解のもとに、講義録の一部を引用させていただく。
氏は、田沼の積極的経済政策として、大石慎三郎さんの『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)からとして、つぎ4点をあげる。
1.年貢増徴でなく流通課税による財政再建
2.通貨の一元化
3.蝦夷地の調査と開発
4.印旛沼の干拓
このうち、1.は、ほとんど石谷清昌の企画・立案、施行によると、氏はいう。
田沼の経済政策の実質的な担当者は誰だったか。
彼(田沼)が老中に昇進してからは、松本秀持と赤井忠晶を勘定奉行にして、印旛沼干拓とか蝦夷地(北海道)開発などの派手なプロジェクトを推進させようとしたから、この2人が腹心の部下だったことはまちがいないが、これは田沼政権の末期に近く、上記の1.と2.の政策を進めた時期には、まだ下役の一人にすぎなかったし、財政負担の多いプロジェクトで、失敗や挫折をくり返して田沼政治を沈没させてしまう結果になったのだから、彼らを過大評価することばできない。
大石氏をはじめ、近世史家の多くが、そうした間違った評価をしているのは解せないことである。
この頃の幕府政治の実務を担当する官僚たちは、勘定方を中心に、頭も切れ、実行力にも富んだ優秀な人物が少なくなかった。
田沼自身は、小姓から御側御用取次・側用人・老中と、いわゆる側近のコースを歩んで昇進してきたから、勘定方の経験はなく、個々の具体的な政策面で案を立てたり、細かい処置を考えたりするためのに、実務知識や手腕を持っていたわけではない。
彼の役割は、総合的な方向をきめ、とりわけそれに必要な人事を行うという、総括者としてのものであったから、上記のような革新的な政策を企画し、調査と実行に当るための、優秀なスタッフがいなければ、とても実現できなかったはずである。
むしろも田沼自身の直接の提案や指示に出たと思われる政策では、思いつきの危うさと計画の粗さが目立つケースがおおい。
役割分担に関してのI氏の指摘は全面的に的を射ているとおもう。
田沼の器量の大きさは、人材の登用と、将軍・大奥をはじめとする関係箇所への根まわしも周到に行ったことからも推察できる。
また、石谷清昌は紀州閥の一人とはいえ、吉宗没後に、彼を引き立てて経済諸政策を実行させた田沼の功績は、いささかもゆらぐものではない。遠い閨縁という関係ももちろんあることはあったが。
ことに、人事については、老中首座・松平左近将監武元(たけちか)の生存中は、田沼の独断は許されなかったろう。仮に独断を通したとしても、引き立てられた仁は、赴任先で陰湿にいじめぬかれて挫折しよう。
それを避けるための手くばりが、年を経た幕府官僚社会ではとりわけ必要だったのではなかろうか。
史家は、そういう些事ともおもえる陰湿な部分は、概して素通りしがちである。まあ、人間感情にこだわると小説にするしかないが。
石谷清昌は、勤勉・精勤、しかも、担当者の話をよくきき、問題の本質を見抜き、意見をよくとりあげたと、I氏はいう。
ということは、田沼が、清昌の使い方を十分に心得、先、さきと手をまわしていたことをも暗示しているようである。
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