堀 帯刀秀隆
堀 帯刀(たてわき)秀隆(ひでたか)は、火盗改メ方の長官として、本役を天明5年(1785)11月15日(49歳から、同8年(1788)年9月28日(52歳)まで勤めて、長谷川平蔵宣以(のぶため)と交替した。
任期中の明和7年5月に、暴徒による江戸打ちこわし事件がおきた。
暴徒の鎮圧に、町奉行所も火盗改メの堀組(先手・弓・第1番手)も役に立たないというので、幕府は、組頭が比較的若い先手組10組に出動命令を出したことは、これまでに記している。
このところずっと引用してきた深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』 (吉川弘文館 1991.5.10)の第3編に[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]があることも、2007年8月12日[徳川将軍政治権力の研究]第1回目に報告しておいた。
郡上八幡藩の農民一揆についての、田沼主殿頭意次(おきつぐ)の介入の報告がおわったので、第3章の御庭番についての史料を拾い読みしてみたら、なんと、長谷川平蔵に関連する記述がかなり多い。
しかも、これまで見たこともない史料が少なくない。
御庭番の史料は、著者の勤務先である徳川林政研究所が所蔵する、徳川宗家が保管していた「御庭番手続書」とか「御庭番勤方心得之儀中申上置候書付」などだが、将軍や側衆の命令で、町奉行所や火盗改メを探索した報告書もある。
たとえば、天明7年5月の江戸打ち壊し騒動の直前の、堀 帯刀秀隆についての風聞ものを現代文に置き換えてみる。
一 先手組頭・火盗改メ長官の堀 帯刀は、このほど、「用米」という札を立て、神田三河町辺の米屋から米百俵ばかりを車に積んで、さほど離れてはいない裏猿楽町の自分の屋敷へ引きとった由。そのとき、同心3人が大八車に付き添っていた。
(府内が米価の暴騰と米の売り惜しみで困っているときに)、なんともあやしげな所業である。
堀 帯刀には、かねてから、カネづまりによる、とかくの噂があった。とてもじゃないが、米100俵も一度に買えるような家計ではない。
打ち壊しの噂を耳にした米屋が、危険を感じて、堀へ依頼、預かったのであろうとのもっぱらの噂である。
これでは、悪人取締りの火盗改メが、どうにも処置なしである。
が、幕閣が、火盗改メにまで隠密をつけて風聞をさぐらせているのだから、世も末といえようか。
ところで、この江戸打ち壊し事件のときに、探索を命じられた御庭番のひとりが梶野平九郎炬満(のりみつ)である。この梶野家の『寛政譜』を掲出しておく。
内容を読むためではない。吉宗が将軍として江戸城へ入ったとき、紀州藩の薬組から召された17家の1家である梶野家の当主が、代々、御庭番の職についていることを見るためである。
(赤○=平九郎炬満 緑○=歴代の当主で御庭番。家譜は寛政期までだが、職務は幕末までつづいている)
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