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2007.09.20

『よしの冊子(ぞうし)』(19)

『よしの冊子』(寛政2年(1781)12月1日)より

一. 番町の新番頭:横地太郎兵衛(政武 まさたけ 廩米 400俵。この年、42歳)方へ入った賊も坊主だったとか。
太郎兵衛の組の者が止めようとしたところ、懐剣を出して手に切りつけてきたので、放したすきに逃げてしまったよし。
小普請組頭:蜂屋左兵衛(可護 よしもり  300俵 この年、48歳)方の縁の下に伏せていたのも坊主で、中間が見つけて捕らえようとしたところ、これまた懐剣で手を切られ、そのすきに塀を乗り越えて逃げたよし。
永井某方へ入ったのも坊主だったよし。
雉子橋:高橋大兵衛方に同居している弟の所へ入ったのも坊主だったと。稲葉小僧同様の坊主姿だと噂のよし。右の4軒、雉子橋をのぞくと3軒は番町。
この坊主姿の盗人、番町あたりをあちこち襲っている模様で、4年前(天明6年)の米屋騒動のときのような成り行きで騒ぎが大きくなっているそうな。

一. 安藤又兵衛(正長 まさなが 廩米 331俵)は、気性がはなはだむづかしい男のよし。いったいに公事をさばくことが好きなので、公事方勘定奉行の役所へ出、さばいてみたいとつねづね願い出ているそうな。
さて、このたび養子の御番入りを願い金子 200疋を堀田摂津守(正敦 まさあつ 若年寄)の用人へ贈ったよし。
この金子はただちに用人から返され、その受取書を用人から堀田摂津守へご覧に入れたところ、堀摂侯は登城の節ご持参になって、ご同席方やご老中へもご覧に入れたので、早速に小普請入りを命じられたが、だいたい又兵衛には旧悪もある模様。
  【ちゅうすけ注:】
  若年寄・堀田摂津守正敦(近江・堅田藩 主 1万石 この年、32
  歳)実は、松平陸奥守宗村が8男。母は坂氏。老中首座:松平
  定信の盟友。

嫡孫をぶって失明させたとか。養子も3人目とやらで、養子が患ったときも食物や薬も一切与えなかったとか。先年、和田八郎(現在は小笠原仁右衛門の手代)が又兵衛方へ勤めたとき、養子が気分が悪いといっているときにも、湯水も与えないので、八郎が目を盗んで看病したとか。
召使いの使い方もひどいもので、病気で引き込んでいても湯水も与えず、暇をとると給金を本金どおりに立て替えさせ、もし本金がとどこうると、荷物を押さえて渡さないとのこと。
女の古いつづらが 24,5個も二階に重ねて置いてあるそうな。だから世間では安藤又兵衛とはいわないで、本金又兵衛と呼んでいる。奉公人も一向に居つかず、用人もいないまま。
当番のたびに用人を雇っている始末。このたび小普請入りを申しつけられたので、組員一統が悦んでいるとか。

一 安藤又兵衛にお尋ねの節、(久松松平)左金吾(定寅 さだとら)殿、安部平吉(信富 のぶとみ 鉄砲の7番手組頭  1,000石 61歳)の両人が尋ねて行くと、又兵衛がいうことには、前々、拙者方へ軽い身分の御家人が来て、これがいうには、摂津守の用人の岡田百助は賄賂を取るのが好きだから、なるべく多く贈られるのがよろしかろう、と勧められたが、ただいままで贈りものなどしたことがない。
摂津守殿のご対客の時間に、拙者が参上したところ、百助が出迎えて手厚く世話していた。
ところがこのあいだは拙者に見向きもしないしものもいわなかったとかと御家人へ報告したところ、「それご覧なさい、それだから贈物をしないと」と勧められたので、 200疋贈ったのだ、と左金吾平吉へ話したとのこと。
なお両人が詰問したところ、その御家人もこのごろは来ない、などといって取りつく島もない始末で、あきれかえったよし。
又兵衛ははじめ 200疋贈ったが、返されてきたので 500疋にするかと考えたと。 2
00疋を返されたので又兵衛は大いに立腹し、こっちも御役を勤めているのに届けものを返してよこすとは不届き千万。理由をしたためた手紙を遣ったので、用人もぜひなく主人へ見せたのだろう。
京極殿(備前守高久 若年寄 丹後・峰山藩主この年、62歳 1万1000余石)が又兵衛へ、摂津守の用人どもにかぎって贈物をしたのか、またはほかの同役どもの用人へも贈ったのか、つつみ隠さずにいってみよ、後日になって判明してはためになるまいと聞かれたので、他へは決してやっていないと答えたよし。
  【ちゅうすけ注:】
  堀田摂津守正睦は、松平定信の盟友で信頼も篤い。その用人が
  賄賂(わいろ)好きとの噂があるところがなんともおかしい。

一. 先だって、代田橋で駕籠から又兵衛が降ろされたのは、六尺(駕籠かき)への弁当代をやっておらず、駕籠かきたちが申しあわせて降ろしたよし。それゆえ駕籠かきどもは入牢し、この月の2日、牢死したもよう。
その思いばかりでもただではすみそうもないとの噂だ。
安藤又兵衛の倅は三度目の養子で、芸術も人物もいたってよろしく、選にもあたり申すべきほどの様子のところ、又兵衛の大ばかのためにあのとおりの結果になったので、養子は嘆息し途方に暮れたよし。
25日の夜、安藤又兵衛の倅は井戸へ身を投げて死んだよし。
又兵衛が小普請入りを命じられた日から、お前のためにおれはこうなってしまったとたびたびいい聞かされたので、倅の身としては気の毒で辛抱たまらず投身自殺したもよう。
本金又兵衛と呼ばれる男は本所に一人、浅草にも一人いるが、この三又兵衛のうちの一人がしくじったので、今後は二又兵衛となると噂されているよし。
又兵衛の倅は、竹中惣蔵のところへ弓の稽古へ通っていたところへ自宅から人がきて、父の又兵衛があすお城へ召されたといったので、父の立身か自分の番入りかと帰ったところ、小普請入りとのことで、倅も大きく気落ちしたよし。
倅は武芸がいたってよく出来、腕前は御番衆や小普請の中にもくらべられる者もいないほどとのこと。安又の倅が井戸へ入ったのは、養母を殺したことを申しわけなく思ったからだ、ともいわれている。
井戸へ入ったので地上ではたいへんにうろたえ、さげた釣瓶につかまれ、引きあげるからといったが、縄が切れて釣瓶が頭を直撃したので即死したらしい。又兵衛が謹慎の処分中なので小普請組頭はくやみに行くこともできず、世話役を遣って検分したとか。
倅の里方でも、又兵衛のふだんのやり方に不満があり、かねてから養子縁組を解消して取り返したいと考えていたが、御番入りの話もちらほらしていたので我慢していたものの、又兵衛が小普請入りを命じられたのでその謹慎が明け次第に取り返すつもりであったという。それで里方ではこんどの事件で又兵衛の責任を追及するつもりらしい。又兵衛も謹慎ですめばいいが、どうもそうではなさそうな雲行きとの噂がささやかれている。
  【ちゅうすけ注:】
  井戸へ入った養子:満吉正武は27歳。里方:内藤主税信就
  ( 1,000石 小姓組の家筋)の4男(ただし兄2人は早逝)。

一. 当節、あちこちはなはだ物騒で、夜盗、押し込み、小盗人が流行っているよし。
春のあいだは牛込、小日向のあたりのみだったが、このごろは小川町、番町、麹町あたりまでが物騒になり、追い込み(押し入って奪う)や追い落とし(路上での強奪)事件が頻発している。

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