『よしの冊子(ぞうし)』(18)
『よしの冊子』(寛政2年(1790)12月1日)より
一. 銭相場が引きつづき急騰しているのはどういうわけか、豊島屋へ銭を売るなと仰せつけられたので、引き上げても、銭を買い上げになっても、いろいろと噂しているよし。
米は安く、銭が高いので、武家は一向に引き合わないと小言がでている。
しかし諸物価を引き下げのためにいろんな策が講じられているが、以前と同じことで物価は少しも下がらないのは、まず銭を高くしておいて、その上で物価を引き下げる計画なんだろう、とのもっぱらの声。
【ちゅうすけ注:】
1両= 4,000文に定められていた銅銭との交換レートが、実勢で
1両= 6,200文前後と、銭の値打ちはさがっていた。
それが、銭がじわじわと高値(5,300文近く)になってき、逆に、
米価は下がり気味だったから、米で給料をもらっていた武家はた
まったものではない。
一. 銭が高値になったのは、長谷川平蔵の処置だとの噂もでている。
無宿島(注:人足寄場)で10万両ほど銭を買い上げたせいで銭が高値になったのだと。
いずれは諸物価を引きさ下げるための処置なんだろうが、物価は急には下がるまい、物価が下がったところで武家にとっては朝三暮四じゃといっているよし。
諸物価を下値にとのお触れが出ているので、酒、油、豆腐類などの金本位で値づけされている物は引き下がっているよし。
銭で値づけされているものはいまのところ下がってはいない。
この節、銭が高値になっているので、両替や質屋、呉服屋などは大いに利を得、毎日過分の利を得ているので、どうでもよいものはよい、どっちにしても利をとりにくいやつだと噂している模様。
諸物価がおいおいに下がりさえすれば、銭が高値でもいいとの評判も聞かれるよし。
町方でもこのたびの仰せ渡されはごもっとも、至極ありがいことじゃ、是非下げねばならぬ、と、互いに心掛け、銀匁のものは銀匁を安くし、煎餅などは品を大きくするとか厚くするとかするらしい。
ただし野菜や魚類、また日雇い代などは一向に下がらない気配。なにとぞ奉公人の給金も昔のように安くなればよいのだが、と噂しているよし。
【ちゅうすけ注:】
銭のレートを上げるため……というより、人足寄場経営も2年目に
入り、初年度に 500両つけてくれた運営費を、幕府は 300両に減
らした。
これではやっていけないので、長谷川平蔵は諸物価安定との理
由をつけて幕府から 3,000両借り出して銭を買い、月番の
北町奉行の初鹿野(はじかの)河内守信興(のぶおき 1,200石
47歳 武田系)同席のもとに呼びつけた両替商たちに「銭の値を
あげよ」と命じた。
1両= 6,200文前後だったレートは1両= 5,300文前後まで銭が
上がった。
平蔵はただちに買い置いた銭を売り払い、差益を400両ばかり取
得、寄場の運営資金の足しにするとともに、元金 3,000両を幕府
の金蔵へ返済した。
この行為を、「武士たる者がゼニに手を染めた」と保守派幕臣た
ちが非難した。
その代表が、寄場への予算をケチった老中首座・松平定信で、
自伝『宇下人言』に「長谷川なにがしは姦物」と記した。
『よしの冊子』全編を通じて、「姦物」と書かれているのは、賄賂
(わいろ)を激しく得ている人物である。
平蔵にこの言葉が冠されたのは、この銭相場でえた利得を私(わ
たくし)したとの判断によるようである。
事実は、人足寄場の経費の補填に使ったのだから、「姦物」よば
わりは不当・不見識といわなければなるまい。
一. このあいだ、初鹿野(北町奉行)のお役宅で、初鹿野と長谷川平蔵の両人が列座して、江戸中の名主と大屋を呼んで、このたび銭相場が高値になったので、諸物価は値下がりするだろう。
いかように銭が下値になっても、(1両=) 5,200文より下値にはなるまいから、不安がらないで右の心得で諸物価を引き下げるように申し渡したとのこと。
初鹿野は名門の出(注:武田系の依田(よだ)から初鹿野へ養子)、長谷川は御先手から町奉行役所へ出て町人へ申し渡したのはいい度胸だと噂されている様子。
いずれ町々の町役人一同は長谷川を町奉行にと願っているとのこと。
いたって慈悲心のある方と悦んでいるよし。
柳生(主膳正久通 ひさみち 46歳 600石 勘定奉行は3000石高)が大目付になると、長谷川が柳生のあと勘定奉行になるだろうとのうわさ。
一説に、長谷川の職はいままでどおりで、むしろご加増があり、掛り役を仰せつけられるとの噂もある。
【ちゅうすけ注:】
加増も勘定奉行もなかった。
一. 佐野豊前守(政親 まさちか 59歳 1,100石 鉄砲の16番手組頭。この年10月7日から助役))は長谷川を師匠と頼み、万事問いあわせて勤めて、はなはだ仲がよろしいよし。
役向きでも昼夜張りつめている模様。
町人どもが召し捕った者を連れてまいっても手間をとらせずに済ませているそうな。
役羽織の紋どころを町々へ触れさせるのがしきたりだが、佐野は助役の紋どころは知られぬほうがいいといって、紋どころの書付をまわしていないらしい。
【ちゅうすけ注:】
火盗改メの組下は、火事などの出動の時に揃いの羽織を着る。
その袖に組頭ごとにそれぞれの柄をつる。
佐野豊前守は、冬場だけの助役だから、無駄遣いと判断。
佐野はつねづね、自分は落ち度をしでかしたおぼえはない、評定になれば申し開きができるから、評定にしたいものだといっていたところなので、このたびのお役を間違いなくありがたがっているよし。
これは松平石見守(貴強? たかます 1,100石)が百日目付へつかれたとき、目付違いを上申する落ち度があったよし。
このごろの評判では、松平(石見守?)が御先手に任命され、佐野がまた大坂町奉行に戻る、と噂されているよし。
【ちゅうすけ注:】
佐野政親は、天明元年(1781) 5月26日から足かけ7年間、大
坂町奉行。病免して寄合。回復後、先手組頭。
参考:佐野豊前守政親
一. 長谷川平蔵は、 3,000両ほどずつ銭を買ったらしい。
この節、銭値が日々に上下しているので、両替屋どもの中にはこの機に乗じて大きく利を得ている者もいるよし。坂部十郎右衛門(広高 ひろたか 廩米 300俵。目付、のち町奉行)も、 3,000両のうち 100ほど買っておき、配下の者へ触れをまわして希望者へは買ったときの安相場での買値で分けたという噂がもっぱらだ。
一. 佐野豊前守(政親)は、10月から3月までの御加役中に 400両借金ができてしまったよし。
加役(火盗改メの冬場の助役)でさえこうだから、長谷川は長い本役づとめをしているのだから、さぞ物入りであろう。
長谷川は慈悲もほどこし、先だって新刀(注:神道、新稲、新藤とも)小僧を召しとったときには、「新刀小僧ともいわれるほどのお前が、そんななりで入牢しては格好がつくまい」と3両だして衣服をこしらえて牢へやったそうな。これはほんの一例にすぎず、とにかくなにやかやと物入りが多く、よくまあ続くことよ、あれではさぞや借金が増えることだろう、と噂されているよし。
【ちゅうすけ注:】
新刀小僧は配下 700人ともいい、関東一円から信州、奥州にか
けて盗みをはたらいていた大盗賊の首領。
3両だして新刀にふさわしい衣服を与えたエピソードは、
2007年9月8日『よしの冊子(ぞうし)』(7)を参照
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