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2007.09.28

『よしの冊子(ぞうし)』(27)

よしの冊子(寛政3年(1791)4月21日)より

一 佐野豊前守 (政親 まさちか 60歳 1100石 先手・鉄砲の16番手組頭)が加役を命じられた節(寛政2年11月)、岡っ引きで神田の勘太という者を召し捕らえたよし。
この勘太は年来岡っ引きをし、金子を儲け、米屋株を拵え、自分は裏へ引っ込んで御門番所、見附々々の中間などを口入れしていたところ、その中間のなかの1人が(2月ごろに)豊前守に召し捕られ、勘太が偽の名主や大屋を拵え、豊前方へ訴訟へ行くところ、偽の名主や大屋のことが露見して入牢してしまった。
ところがこの節、勘太が免され、ところどころさし口(密告)するので、見附々々の中間どもが大勢召し捕られたとのうわさ。
  【ちゅうすけ注:】
   『夕刊フジ』の連載コラムに、佐野豊前守の深慮遠謀ぶりを
  谷川平蔵
が買っているさまを2度、[ともに尊敬しあい][美
  質だけを見る]
として登場させた。
  上記の順番に再録。

「いや、長谷川どのはわれらがもつことがかなわぬ体験をへておられる。うらやましいかぎり」
火盗改メの冬場の助役(すけやく)に任じられた先手鉄砲組16番手の組頭・佐野豊前守(1100石)が、平蔵のところへあいさつにきた、寛政2年(1790)10月ののことだ。

この仁(じん)人は51歳で大阪町奉行に就いたほどで出来ぶつのうわさが高い。
助役発令の際にも、
「このごろの先手組頭で加役(助役)を仰せつけるとすれば、佐野おいてほかにいない」
と殿中で噂されていた。

そんな豊前守政親の真意をはかりかねたかのように、平蔵は、
「なんの、なんの」
とことばを濁した。

「お若いころの遊蕩のことですよ。人なみに遊びたいと思ってても、上への聞こえをおそれるわれらは、よう遊びませなんだ。
8年間つとめた大阪の町奉行を病いをえて辞し、3年間療養にしていてハタと悟りましてな。
人生には無用の用というものがあり、それを体した者が大器になりえると」
「遊蕩が資すると---?」
「いかにも。人にもよりましょうが---」

旗本として出仕前の若いころの遊蕩の価値を、15歳も年長の先達に認められたのだから平蔵も悪い気はしない。両人の親交はこうしてはじまった。

なにかにつけて「長谷川どのは先任者…」を豊前守は口にしては、火盗改メのしきたりについて教えを乞う。平も「豊前どのこそ人生の先輩」と立てた。
ことごとに対立した松平左金吾のあとだけに、豊前守のソフトな対応はよけいにうれしかった。

菊川(墨田区)の長谷川邸へ招いたり、永田馬場南横寺町の豊前守の屋敷へ招かれたりして情報を教えあい、盃をかわした。年齢差を超えての交際となった。

早くに父を失った佐野豊前守は、祖父から家督した11歳以来、家名の重みがずっとその肩にあった。相手の長所だけを見ることを課した自律の半生ともいえた。
だから平蔵のような天性をまるまる発揮してなお魅力を失わず、部下からも慕われる器量の持ち主を友にできたことに感謝した。平蔵も、豊前守から謙虚さを学んだ。もちろん自分には身につかない美徳とあきらめはしたが。

たとえば助役になると、与力や同心たちが捕物のときに着るそろいの羽織に、組頭を示す模様をつけ、町々へふれさせるのが従来のしきたりだが、豊前守は、
「助役の模様なんかは知られないほうがなにかと都合がよろしい」
と秘した。
なるほど助役の任期は火事の多い晩秋から晩春へかけての半年ばかりだから、識別模様が徹底するころにはお役ご免になっているケースのほうが多かった。

が、平蔵の受けとめ方は違った。世間に対しても本役を立ててくれていると感じた。
さらに豊前守は、大阪町奉行の前歴を生かしているかのように、組の与力同心をてきぱきと指揮して捕らえた者の裁きをすすめ、幕府の最高裁ともいえる評定所へ伺うことはなかった。
  【ちゅうすけ注:】
  この項、2007年9月19日『よしの冊子(ぞうし)』(18)
  2007年8月5日[佐野豊前守政親]を参照
             ------------------------------

『夕刊フジ』のコラムに登場させた幕臣で、長谷川平蔵に次いで愛着を感じているのは、平蔵の同僚で、鉄砲組16番手組頭・佐野豊前守政親(1100石)だ。

経歴は堺町奉行や大坂町奉行を経ており平蔵の先達、15歳年長なのに助役(すけやく)という立場を忘れず謙虚に教えを乞う姿勢をとった。 
欧米流パフォーマンスとかで、「おれが、おれが…」と自分を売りこむのが今日風と思われている。平蔵にもその嫌いがあった。だから同僚たちが敬遠しもした。

この国には、「能あるタカは爪を隠す」といって佐野豊前式のひかえ目を美徳とする暗黙の評価基準がある。
人望は、どちらかといえば平蔵流より豊前守式のほうへあつまる。

平蔵豊前守は性格がまるで対照的なのにもかかわらず、互いに敬意をもって親交をつづけえたのは、人を見るときは美質だけ、との豊前守の信条によるところが大きい。
 
豊前守の組の者が神田の岡っ引きの勘太を捕らえた。
長谷川組の同心たちが所轄ちがいの所業といきまくのを、平蔵は、
豊前どののやりようを学ぶよい機会(おり)だわ」
とりあわない。
所轄ちがい---火盗改メ・本役の所轄は日本橋から北、助役は日本橋の南を担当、と決まっており、神田は本役の管轄内。

長年岡っ引きをやっていた勘太は、商店をむしった金で米屋株を買ったり、素行の悪い男たちを中間として番所や見付へ入れるなどの悪評が立っていた。平蔵もいずれ引っ捕らえるつもりだった。
 
佐野組はまず、中間の1人を博奕の現行犯で捕らえ、その身元引受人というふれこみで勘太が偽の名主や大家をこしらえて出頭してきたところを入牢させてしまった。

「あれで終わらせるような豊前どのではあるまい」
平蔵が与力同心たちへいった旬日とたたないうちに、佐野組勘太を放免した。

(うちの長官も焼きがまわったか)
組下たちがささやいたとき、佐野組は中間に化けて見付見付もぐりこんでいる盗賊たちを引きたてはじめた。
勘太の密告(さし)だった。

「かの仁の悪(わる)の使いようは、おれ以上よ」
と笑う平蔵から、長谷川組配下の者たちは敬意のささげ方をおぼえた。

ここで佐野豊前守のもう一つの顔を紹介しておきたい。
天明4年(1784)春、殿中で若年寄・田沼山城守意知(おきとも)に斬りつけた佐野善左衛門(500石)は、切腹を申しつけられて家は断絶。
人びとは彼を「世なおし善左衛門」とほめそやして浅草・徳本寺(東本願寺塔頭)墓前は紫煙がたえなかったという(殺人者をたたえるとは!)。
本家すじの豊前守は大伯父にあたる。

善左衛門のことをほとんど話題にしない豊前守だったが、平蔵には洩らした。
「あの者は、とり柄の正義感が強すぎたがために扇動に乗りやす質(たち)で、父親が50をすぎてからの子なので諸事甘く育てられました。産んだのは美人自慢の、自分が中心になりたがる芸者---それを継いでいたのを反田沼さま派にたくみに利用され……」

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