隠密、はびこる
深井雅海さん『徳川将軍政治権力の研究』(吉川弘文館)第3編[第3章 徳川幕府御庭番の基礎研究]には、天明の後期、松平定信(さだのぶ)が政権をにぎったときから、御庭番もふくめて、権力者の隠密による情報収集がはじまったかのような文章がみられる。
徳川宗家に保管されていた御庭番の風聞書しかり、松平家(桑名藩主)で厳秘にふされていた『よしの冊子(ぞうし)』しかり---と。
『よしの冊子』は、定信にしたがっていた水野為永が、老中職についた 定信のために徒(かち)目付や小人(こびと)目付などの幕府職制下の人員とその手下の連中を使って集めた噂である。
別のHPに現代文に置き換えて掲示しているが、火盗改メと長谷川平蔵に関係する部分を転載してみよう。
よしの冊子(天明7年11月4日より)
一. 堀 帯刀も、いまの火方盗賊改メよりも上の役に仰せつけられそうなものだ、との噂をしているよし。長谷川平蔵のようなものをどうして加役(助役)に仰せつけられたのかと、疑っているよし。姦物のよし。
(駿河台あたり 赤○=裏猿楽町の堀家 1400坪前後 近江屋板)
【ちゅうすけ注:】
堀 帯刀秀隆 このとき50歳。1500石…小説に 500石とあるの
は、池波さんの創作。
屋敷は裏猿楽町(千代田区猿楽町 2-5 1400坪余)
天明元 8月20日 先手鉄砲16組組頭
〃 10月13日 火盗改メ(助役)
〃 2年 4月24日 〃 解任
〃 5年11月15日 弓7組へ組替え
〃 〃 火盗改メ(本役)
〃 6年11月17日 弓1組へ組替え
〃 8年 9月28日 持筒組頭
一. 堀 帯刀組の与力の中には、御頭に感服していなくて出勤してこない者もいるらしい。帯刀は大拍子者(その時のははずみでよくも悪くもなる者)ではあるけれど、家来の中に姦物がいて、帯刀の知らないことも行われている模様。
(緑○=先手・弓の1番手組屋敷 牛込山伏町)
よしの冊子(天明8年2月17日より)
一. 先手の火方盗賊改メの堀 帯刀は、いままでに組替えを3度しているよし。
組替えの理由はというと、火盗改メというのは外聞もよく、また町へ出向くときには威勢もいいし、とりわけ最近のように米価が高値傾向にあるので、帯刀へ80両や100両遣っても、わずかのあいだに元がとれるというので、われ先に堀 帯刀へ賄賂を遣ったせいとか。2度目の組替えは80両を届けて帯刀の組になったよし。ところが次の組はほかから手をまわして100両を贈って帯刀組へおさまったとか。
本役で3度の組替えはこれまで前例がない。だいたい、帯刀は金繰りに困っており、組替えをタネに金銀を少しずつ取りつづけているらしい。
で、堀 帯刀の評判は悪く、そろそろ解任すべき時期だとの噂。
【ちゅうすけ注:】火盗改メの組頭の役料は40人扶持
…1日あたり玄米2斗。
1升100文として搗き減りを見込むと1分2朱100文。
(1両=20万円だと1日8万)。
与力の役扶持は20人扶持…1日あたり玄米1斗。3朱と50文。
(換算すると4万。月に120万円=6両弱)
同心の役扶持は3口…1日に玄米1升5合。
月に1斗4升(搗き減りを見て換算:月額7万円)。
組替えに80両を贈ったとして
与力1人あたり5両(100万円)
10人で計50両、同心1両(20万円)ずつ、30人で計30両、
合計80両拠出したとしても、すぐに元はとれる。
(役扶持は松平太郎著『江戸時代制度の研究』。
米価は『生業物価事典』 )
一. 先手・火方改の堀 帯刀組与力:大森宗右衛門は、先年お役を勤めたときもほかからまったく賄賂を取らず、町々でもふるまいを一切受けなかったよし。
(緑○=与力・大森宗右衛門宅 先手2ヶ組与力20騎の宅が集まる御納戸町。○赤=長谷川平蔵の次男が養子に入った一族の大身旗本・長谷川久三郎の屋敷 4000余石)
そのほかの与力はお役を勤めて家計を立て直したが、宗右衛門は逆に借金をしたほどだとか。
この役は下に通り者(博打打ち)を使っていないと成績があがらないよし。
宗右衛門が下谷あたりで通り者を呼び
「その方たちなら悪者のことは熟知していよう、いま、どんなのがいるか」
と尋ねたところ、
「承りましたが、ここではなんですから、まずは茶屋へお立ち寄りください」
料理茶屋へ与力同心をあげ、あれこれ料理を注文するので、宗右衛門が、
「自分はいま腹は空いていないが、注文してしまったのではしょうがない。
この料理の代金はいかほどかな」
「とんでもございません。手前どものおごりございます」
「冗談いうな。こちらで払う」
「ほかのお役人さまはどなたもお受けくださいますよ。
ぜひ、箸をおつけさすって……」
「もってのほかのこと」と宗右衛門は立腹、
「役人の身でその方たちから接待を受けるなどは、
とんでもないことだ。
その方がここでごまかしをするなら、まず、その方からお縄を打たねばならぬ」
その通り者を縛り、料理の代金を自分で支払ったとか。
もっともこれは田沼時代のお役中のこと。
さて、堀 帯刀組が金銀を取って組替えすることが知れわたったので、いろんな組が手をまわしたらしい。
こんど帯刀組になろうとしたのは、右の大森宗右衛門が所属する組で、与力たちが申しあわせたのは、「組替えのためには帯刀へ賄賂を遣わなければならないが、宗右衛門はどうせ承知すまいから、彼に声をかけないことにしよう」
と、与力同心で金を拠出して100両余をつくった。
で、めでたく組替えがなり、宗右衛門へ割当金を請求したところ、宗右衛門は立腹して一文も出さなかったため、彼の分をみんなで分担してすませたよし。
火方盗賊改メのお役中、与力には10人扶持ずつが下されるので、宗右衛門が組下の同心へきつく申しわたしたのは、
「仕事で出費が必要なら、自分への10人扶持を差し出すから、町々で賄賂を受けとらないうに」
その代わり、悪人を容赦なく縛り、総体に厳しいとのこと。
【ちゅうすけ注:】
『冊子』のいうとおり、火方盗賊改メのお役中の与力の役扶持が
10人扶持なら、月額は60万円=3両弱。
ただし、精米が1升100文として試算。1升150文が時価なら
3割増。1升5合100文なら3割減。
蔵宿の手数料は計算外。
一. 堀 帯刀は、寒中もゼゲン縞の綿入れに小倉の羽織を着てブルブルふるえながら炬燵に入っているほどの極貧なのに、用人は女を囲っているほど身代持ち。
帯刀は単に気のいいばかりで私欲もないのに評判が悪いのは気の毒だ、と同情されている。
(天明8年(1788)2月17日より)
一、加役の長谷川平蔵は勤務ぶりがよろしいので褒美下されたけれど、本役の堀帯刀へなんの沙汰もなにかったのは、その勤務ぶりがよくなかったからだ、ともいえそうなよしのさた。
一. 長谷川平蔵は姦物なりとの噂があるよし。
しかし時節柄をよくのみこんで、諸事に出費かかからないように計らっているので、町方はことのほか悦んでいるらしい。
去年も雪の降る夜、品川辺で賊一人を召し捕ったところ、自身番所へ預ければ、町内の出費も増えようから、その晩のうちに自分の屋敷へ連れてくるように申しつけたそうな。
そこで長谷川の屋敷へ連れて行ったところ、夜更けだったけれども、さっそくに門を開けて、白洲みたいなところへ通されると、向こうの障子の内にアンドンが見え、ただちに障子の内から同心がまかり出てきて囚人を受けとり、送ってきた者へ休息していくようにと申したそうな。
3畳ほどの屋根つきの休息所で茶や煙草をふるまわれて帰ったよし。
そんなわけで町方は悦んでいるらしい。
(天明8年(1788)4月10日より)
一、長谷川平蔵は加役を解かれたよし。先達て召し捕りものの実態を本弾(本多弾正少弼忠籌(ただかず)…側用人、若年寄、老中(格))へ申しあげたので、首尾よく本役に任命されるかと期待していたらしいが、加役は予定どおり解任だったと。
【ちゅうすけ注】このとき、平蔵が任じたのは、火事の多い冬場の火盗改メ・助役(すけやく)で、本役は堀秀隆。隠密はそういうこともわきまえないほど知識不足。要するに質が低い。
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