『よしの冊子(ぞうし)』(5)
老中首座・松平定信(さだのぶ)が、仕置(政治向き}の結果と世情を知るために求めたせいもあるが、数多くの隠密からリポートがあがってきた。活字本2冊になった『よしの冊子(ぞうし)』(中央公論社)は、1万件近くを収録している。
火盗改メと長谷川平蔵宣以(のぶため)にまつわるものは、うち、200件前後。
もっとも、定信は当初は熱心に読んだらしいが、後半になると、ほとんど目を通していないのでは---と推理できる。というのは、当初に書かれた平蔵像を、その後、半自伝『宇下人言(うげのひとこと)』(岩波文庫)などでは、まったく、修正していないからである。
当初、反・田沼の印象を強めるために、隠密たちは親・田沼意次(おきつぐ)色の濃い人物たちを、故意にゆがめてリポートしているように見えるが、定信は、その時に刷りこまれたままの目で平蔵を見ているとしか思えない。
よしの冊子(天明8年11月20日より)
一. 江戸中に菰かぶり(無宿人)が 350ほどいる。これを残らず召し捕れば、放火沙汰やそのほかの騒ぎも起きなくなるだろうと、その議論を本役加役であれこれしているよし。
しかしこれはウジ同様のようなもので、一旦はいなくなっても、また湧いて出てくるだろうといわれているよし。
一. 堀 帯刀(秀隆 ひでたか 1500石 長谷川平蔵宣以の火盗改メ・本役の前任者)はいたって貧窮のよし。御先手から持筒頭になったので、幕だけでなく他にも物入りが増え、その幕もつくりかねているほどに極貧のよし。
先手組頭時代の用人は悪者だったのでこの際、暇をだしたよし。おしいことだ、もうすこし早く暇をだしていたら、新番頭か遠国(おんごく)奉行になれたものを、といわれているよし。
【ちゅうきゅう注:】
遠国奉行も役高は1500石だから、堀帯刀の場合は足高は出な
いが、役得が入るとみているのだろう。
『鬼平犯科帳』の最初のころの堀 帯刀は有能と書かれていた
が、途中から無能あつかいに変わったのはこの『よしの册子』の
せい、とはじつはいえない。『よしの册子』が収録された『随
筆百花苑第8巻』 (中央公論社)の刊行は昭和55年(1980)
11月で、 『鬼平犯科帳』でいうと文庫巻21に収められている
「瓶割り小僧」が『オール讀物』9月号に発表されたあとであ
る。
一. 堀 帯刀のいま用人がある人に話したところでは、帯刀は目付(安永 5年11月 1日~天明 1年 8月20日 1776~81 先手組頭の前の 6年間)時代に物要りが多くて家計が窮屈になった。
先手組頭を拝命して加役を数年勤めたが、これまた物要りの多いお役目で、そのころはほんとうに逼迫し難渋していました。
思いもかけず持筒頭を拝命しましたが、これはありがたいことです。
それゆえ、主人もどんなことがあっても二、三年はこの役をつづけたいものだと申しております。
せっかく任命されたのだから、どんなに貧乏をしようとありがたいご処置を忘れないように勤めると私どもへも話しております。
まことに主人は加役中、先の用人が心掛けが悪かったために、周囲での帯刀の評判をそこなっていました。
しかし、帯刀はそんな人物ではございません。
かつての用人をお払い箱にしたが、永々のお役中のときのこととか、こんどのお役についてのこととか、外々からいわれてくることがあったら、かつての用人へも問い合わせて善処するつもりでおります。
もっとも、かの用人を他へ住まわせると、一々呼んで事情を聞くことにもなるので、来春まではこれまでどおりに屋敷内にとどめておき、その後で暇を出します。
もちろん、引っ込ませておりますから、表へ出て応対することはありません、
といったよし。
(『寛政重修諸家譜』より、堀 帯刀の個人譜)
(堀 帯刀夫妻の墓(文京区白山2-10 喜運寺) 5回娶っているので、葬られているのは5人目の室か。
一. 両番(書院番、小姓組)のうちに、ぼうふりと仇名されて、役立たずの者をこのぼうふりにしているよし。
これは棒をかついで江戸中を廻ってこい、といわれるからだそうな。
さて、その棒ふりの両番が、去年の冬、あちこちを廻っていたいたとき、怪しい者がいたので召し捕って自身番へ預けて吟味しているところへ、長谷川平蔵組の与力同心が廻ってきて、両番を偽役と見て、あれこれいい合いになったので、両番は大立腹し、殿中で長谷川平蔵にことの次第を話したところ、平蔵も立腹したよし。どう決着がつくことやら、なかなかややこしそうな雲行き。
一. この節、左金吾組の与力が田舎へ廻ったところ、うまく泥棒を召し捕ったので、そのまま宿送りに江戸へ送ったよし。これまでのように田舎の富家が賄賂を出すこともなくて、田舎では大悦のよし。
一. 江戸でも泥棒を召し捕ったら、早々に町奉行所へ連絡すれば、奉行所から受け取り人がやってくるようになっている。大いに簡易で諸掛りも少なくてすみ、みんな悦んでいる模様。
これは去年から右のとおりに上から仰せだされたところ、(町奉行の)柳生などが不才略なので下のほうまで徹底せず、先日(新番組頭の)松下権兵衛方へ入った盗人を召し捕り差しだしたのに、うまく機能しなかったよし。
この節は行きとどいていてよろしいとの噂。
【ちゅうすけ注:】
柳生主膳正久通 (ひさみち 600石)の北町奉行着任は天明
7年(1787) 9月10日。職を得たのは、同年5月の府内の騒動の
不始末で解任になった曲渕甲斐紙景漸(かげつく)まの後任・
石河(いしこ)土佐守政武(まさたけ 64歳 廩米500俵)が3ヶ月
後に没したため。同 8年 9月10日に勘定奉行上席へ栄転(1787
~88 44歳~45歳)。
大和の柳生の門下として柳生姓を名乗ることを許された家柄で、
久通は、将軍・家治の嫡男の家基の剣術相手をつとめたことも
ある。
家基は安永 8年(1779)に18歳で急死した。
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