養女のすすめ(10)
三木忠大夫忠任(ただとう)の娘・多可(たか 14歳)が、 長谷川平蔵宣雄(のぶお 41歳 小十人頭)の養女になったのは、宝暦9年(1759)と仮定して、推理・考察をすすめている。
2007年10月22日[養女のすすめ](9)では、関係のありそうな人脈の年表を掲示した。
しかし、徒労気味に終わった。
それで、最初に戻って、平蔵宣雄と三木忠任との出会いはどこだったか、手引きしたのは誰だったかを推理する資料として、その年表の前半部に、とりあえず宣雄や大橋惣兵衛親英(ちかひで のち、宣以の義父)の職歴を付け加えてみた。幕臣の場合、職場でのむすびつきがかなり強いとおもうからである。
享保17(1732) 永井三郎右衛門(15)婚
三木忠位が娘(17)
享保18(1733) 永井亀次郎生
元文2(1737) 水原善次郎(16)お目見
大橋与惣兵衛(24)西丸納戸
元文3(1738) 永井三郎右衛門(21)西丸小姓組
寛保3(1743) 水原善次郎(22)家督
延享3(1746) 水原善次郎(24)小普請組頭
延享4(1747) 永井三郎右衛門(30)卒
亀次郎安清(15)家督
寛延元(1748) 長谷川宣雄(30)家督
西丸書院番士
宝暦8(1758) 長谷川宣雄(40) 小十人頭
宝暦9(1759) 多可(14?)養女 銕三郎(14)
三木忠大夫が娘
西丸が匂う---ここは本城の半分以下と規模も小さく、勤務している幕臣の数も少ない。職務をこえて、たいてい顔見知りであろうし、儀式ばることもさほどではあるまいし、頭(かしら)になっていない若いもの同士なら、気軽に声もかけあうだろう。
で、でてきたのは、大橋親英と永井保明(やすあきら)の線である。しかし、永井保明は、平蔵宣雄が西丸へあがる前に卒している。
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