養女のすすめ(9)
『寛政譜』によってこれまでに分かった、三木久大夫忠位(ただたか)、忠大夫忠任(ただとう)と、それぞれ養女に出した娘たちを年表にしてみた。
不自然なところが、いくつもある。
享保17(1732) 永井三郎右衛門(15)婚
三木忠位が娘(17)
享保18(1733) 永井亀次郎生
元文2(1737) 水原善次郎(16)お目見
寛保3(1743) 水原善次郎(22)家督
延享4(1747) 永井三郎右衛門(30)卒
亀次郎安清(15)家督
宝暦9(1759) 多可(14?)養女 銕三郎(14)
三木忠大夫が娘
宝暦13(1763) 多可(17?)、水原近江守(42)の後妻
水原源之助生
母は多可 銕三郎(17)
明和6(1767) 水原源之助(4?)お目見 宣以(22)
天明8(1788) 水原源之助(25?)遠島 宣以(43)
寛政4(1792) 水原近江守(71)卒 宣以(47)
寛政8(1796) 辰蔵(25)婚
嫁は亀次郎安清養女(18?)
永井三郎右衛門の結婚年齢についての疑問は、息・亀次郎のお目見年齢からはじいたものだが、そもそも、亀次郎のその年齢がサバを読んでのものと見えないこともない。そういうゲタばき年齢はいくらもあったらしいからである。
亀次郎という男、信用がおけないのは、 『寛政譜』のための「先祖書」を彼が提出しているはずだが、妻女の記述がないこと。それでいて、子どもが6人と養女が記されている。 『寛政譜』の編纂方は疑問に思わなかったのであろうか。
似た疑念は、水原源之助にもある。お目見の時の年齢が届けられていない。
しかしこれは、当人が遠島になっているおり、縁者が提出しているから、そのあたりはあいまいでも仕方がないか。とはいえ、「母は宣雄が女」---すなわち多可だが、彼女は病死したかして、彼女の夫・近江守保明(やすあきら)は、さらに後添えを貰っている。
ま、ここまで年表の素案ができたのだから、これをもとに、これから、いろいろと想像をめぐらせてみよう。
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