田沼意次の肖像画
相良は、田沼意次(おきつぐ)が城持ち大名になった土地である。
政敵・松平定信(さだのぶ)の門閥派のために、いったんはこの地を追われたが、四男・意正(おきまさ)が領主に帰り咲いた。
相良の人たちにとっては、「おらが国さの殿さま」は田沼といってさしつかえない。
その田沼家の遺品を中心に展示しているのが、相良史料館である。
史料館のことは、2007年11月10日[相良史料館]に簡単に紹介した。
この史料館の玄関ホールのガラス・ケースに入れられて、700円で販売されているのが、相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』と題した24ページばかりのパンフレットである。
政敵のために、史料類を居城とともに、ほとんど消滅された意次にしては、その後の研究者のプラスの論を取り入れて、要領よくアレンジしてある。
田沼ファンは、700円を投じる価値はある(そういうぼくは、SBS学苑パルシェ〔鬼平クラス〕安池欣一さんから贈られたんだけど)。
その表紙に置かれている肖像画は、顔の皺などから察するに、意次の60歳代の姿を模したものであろうか。
直垂(ひたたれ)に家紋の七曜が散らしてあるのは、従5位下・諸大夫以上の官位をあらわす。意次は老中だから、とうぜんの略礼服。
(意次の加齢肖像)
意次の肖像画は、これと、あと2点きりしか残っていない。うちの1点。
(直垂に家紋と文様が透きこんであるから従5位下拝受(元文2年 1737 19歳)後、30歳前後か。相良史料館蔵)
この加齢肖像画の原寸大とおぼしき複製が、史料館に掲げられている。
その絵と対面した瞬間に、
「あっ。背景は、あれだっ!」
と声をだしてしまった。
相良探訪の最初に訪れた般若寺で見たばかり---西村ご住職がわざわざ広げてくださっていた杉戸(襖)の1枚に描かれていた虎だった。
杉戸の絵師は、狩野典信。
(般若寺蔵の相良城・大書院の杉戸。
SBS学苑〔鬼平クラス〕村越一彦さん撮影)
杉戸は、相良城の大書院のものだということであった。
城の竣工は、安永9年(1780)、そして4月に意次の最初にして最後のお国入り(滞在はわずか10日間)。
意次は60歳。
絵師による、杉戸の虎を背景にした絵は、まさか、在城中にスケッチしたものではなく、以後に合成して描かれたものであろう。
絵師の名は、メモしそこなった。あとで、史料館にたしかめて補っておく。
それにしても、背景に虎の絵を選んだ意図は?
意次の生年は、引用のパンフレットの年表によると、享保4年(1719)7月27日。この年は、己亥。寅ではない。
7月27日に、寅が入っていたのだろうか。
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コメント
そうでしたか!あの背景に描かれていたのはあれでしたか。 全く気が付きませんでした。同じものを見てもこんなに差があるのですね。ところで、相良町教育委員会編『相良藩主 田沼意次』パンフレットですが確か200円だった思います。
投稿: 安池欣一 | 2007.11.12 10:54
>安池さん
200円でしたか。こっちこそ、どこを見ていたんでしょうね。
投稿: chuukyuu | 2007.11.12 17:27
第1稿では、意次の壮年時代の肖像画を駒込の菩提寺・勝林寺蔵としてコメントしたが、その後、『静岡県の街道』(郷土出版社)の[田沼街道]の項を読んでいて、相良史料館蔵と教えられたので、第1稿をそのように訂正しました。早とちりを陳謝。
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.16 13:46
若いとき肖像の画家は、鈴木百華だそうですが、いつごろの人なんでしょう?
投稿: ちゅうすけ | 2007.11.19 03:23