本多采女紀品(のりただ)(2)
「100晩、夜回りをして、放火を防げるのは1件あれば上首尾というもの」
先手・鉄砲(つつ)の16番手の頭(かしら)・本多采女紀品(のりさだ 49歳 2000石)は、聞き手が、小十人の頭だったころの同僚・長谷川平蔵宣雄(のぶお 45歳 400石)とその息・銕三郎(てつさぶろう 18歳)宣以(のぶため)だけという安心感から、幕府の上層部にたいする批判めいたことを口にした。
盗賊たちに、目ざす家の近くに放火し、騒ぎに乗じて盗みを働くという手口が流行していた。
騒ぎが起こって、人びとの注意がそっちへ集まればいいので、たいていはボヤていどでおさまっていた。
『武江年表』に記されている府内の火事は、
・宝暦11年(1761)8月17日 堺町の芝居(操座)より失火、堺町、葺屋町(中村勘三郎が芝居は普請中なり)しがやけず)。
・同12年(1762)2月 日本橋南町々焼亡。
・同13年(1763)4月7日 滝山町より出火、数寄屋橋御門前迄焼亡。
この3件である。
もちろん、草分名主の家柄で、このころにはまだ生まれてもいなかった編者・斉藤月岑に多くを求めるのは無理である。
火事の記録を集めた『風俗画報・江戸の華 中編』臨時増刊第181号(明治32年1月25日)も、記録しているのは上記のうちの11年の堺町の火事(8月7日と記す)と、13年の滝山町の出火分だけである。出所は、『武江年表』と類推できる文章である。
徳川幕府の正史ともいえる『徳川実紀』の宝暦13年(1763)2月27日の項---
「先手頭・笹本靱負佐忠省火災しげければ。臨時盗賊考察命ぜらる。」
と、上記の火災記録よりも頻度高く、火災がしばしば起きていることをうかがわせる。
これで、同じ時期に、火盗改メが3組となった。ほとんど異例の処置である。
笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)の個人譜を掲げる。
(笹本靱負佐忠省の個人譜)
なぜか、上掲の『実紀』の任命のことが省略されている。
書き控えたのが笹本家か、 『寛政譜』をまとめた側か、笹本家が幕府へ提出した、国立公文書館にあるはずの「先祖書」が未見なので、いまのところはなんともいえない。
ただ、本多紀品にいわせると、
「笹本うじは、先君(家重)の亡き・ご生母(お須磨の方)や、紀州閥(有馬氏倫・加納久通、田沼意次ら)のお歴々とつながりがあるからなあ。出頭も速い」
ということになる。
忠省は、幼名を蓮之助といった。
大奥とのかかわりについては、家譜の前書き---、
「その後、母なるもの大奥につかえ、忠省が事こひたてまつるにより、めされて家をおこすにおよびてふたたび笹本を称すといふ」
「母なるもの大奥につかえ」たのは、紀州家臣・大久保八郎五郎忠寛(ただひろ)のむすめで、同じ紀伊家の臣・笹本正右衛門喜富(よしとみ)に嫁ぎ、蓮之助が生まれたのちに喜富が卒したので、将軍となった吉宗の大奥に入ったことを意味する。
【参照】大久保八郎五郎忠寛の家譜は、2008年2月11日[本多采女紀品](3)
いっとき、大久保忠寛の息子となっていたのを、家を立てられたので、笹本姓にもどった。
外祖父にあたる大久保八郎五郎忠寛は、八代将軍・吉宗が紀州公から江戸城へ連れて入り、小姓(700石)に登用されたが24歳で卒している。弟の往忠(ゆきただ)が家を継いだ。
忠省は、正徳2年(1712)の生まれのようだから、番方(ばんかた 武官系)の終着駅に近い先手組の組頭になった宝暦12年(1762)は51歳---年齢的には、まあまあの栄進である。
大奥につながりが深いことで、番方のみならず、譜代の役方(やくかた 行政官)たちから、人柄・実力を傍らにおいて、妬みをかっていたろう。
「いや、近づいていった者も少なくなかったようだ。人の世の常というものでしょうな」
本多紀品は、苦笑しながら言った。
それはそうだろう、strong>忠寛の姉でもあり、大伯母にあたる女性が、吉宗の侍妾・お須磨の方となり、家重を産んでいる。
家重の誕生は正徳元年(1711)12月21日。
須磨は、2年後の正徳3年(17123)に26歳で歿しているが。
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