本多采女紀品(のりただ)(3)
「世間では、大久保99家、本多100家などといっているが、なに、譜代衆が一門をふやしたのは、大久保どのやわが本多にかぎったことではないので、水野も酒井もそうだよ」
本多采女紀品(のりただ 49歳 先手頭 2000石)は、長谷川父子の久しぶりの訪問に気をよくしているらしく、いつになく、口が軽い。
「ほら、銕三郎(てつさぶろう)どのが学問をしているのは、黄鶴(こうかく)塾といったかな?」
「はい。黄鶴先生です」
「その塾に、大久保なんとやらという塾仲間がいるとか、いつぞや申されたな?」
「はい。大久保甚太郎(じんたろう)です」
【参考】2007年7月3日[田中城しのぶ草](14)
「その者の家系は、いま話題にしている紀州系の大久保ではない。その者は、平右衛門忠員(ただかず)どのの兄者(あにじゃ)・忠俊(ただとし)どのの流れです。
銕三郎どのもご承知とおもうが、徳川家で重きをなしている大久保家一門は、大権現さまの時代に武功が大きかった平右衛門忠員(たたかず)どののお子たちの忠世(ただよ)どの、忠佐(ただすけ)どの、忠為(ただため)どの、忠教(ただたか 彦左衛門)どの。
(大久保家の主流の祖)
いま、名をあげた4人のご子息たちのうち、忠世どのの継嗣・忠隣(ただちか)どののご子孫が、今夕、銕三郎どのが話した箱根関所の守護を受けもっておられる小田原藩主・忠興(ただおき 11万3000石)侯」
本多采女紀品の話はつづく。
忠員の三男・忠為が、家康の十男・紀州権大納言頼宣(よりのぶ)にしたがった。
「火盗改メの増役(ましやく)となった笹本靱負佐(かなえのすけ)忠省(ただみ)どのは、忠為どの四男が立てられた大久保家のむすめを娶った、笹本正右衛門喜富(よしとみ)どのの遺児でござっての」
(笹本忠省を養なった紀州の大久保家)
【参考】笹本靱負佐忠省の個人譜は、2008年2月10日[本多采女紀品](2)
本多紀品の話に付け加えると---、
八代将軍となった吉宗(よしむね)が、まだ紀州公で、麹町の藩邸(紀尾井坂)にいた時、迎えた正室---伏見文仁親王の貞姫が、和子を産むことなく4年たらずで病死した。
そのあと、30代の吉宗のお部屋さまとして家重(いえしげ)を産んだのが、紀州家臣・大久保八郎五郎のちの伊勢守忠旧(ただふる)のむすめ・於須磨(すま)の方である。
須磨は、家重が将軍職に就くのを見ることもなく、26歳で歿している。
しかし、大久保八郎五郎一族からは、於須磨の縁もあったのであろう、数人のおんなたちが大奥へ仕えたので、その恩恵が男たちの身分や家禄に反映したともいえる。
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