南本所・三ッ目へ(10)
【ちゅうすけのひとり言ふうに(その2)】「父上から教わったことは、それこそ、数えきれぬわ。『子曰く、これを知るものはこれを好む者に如(しか)ず。これを好む者は、これを楽しむ者に如かず』などは、おれの生き方にさえ、なっている」
長谷川平蔵宣以(のぶため 44歳 先手・弓の2番手組頭 400石)が、妻・久栄(ひさえ 小説の名 37歳)に、しんみりと、洩らした。
宮崎市定さん『論語』(岩波現代文庫 2000.5.16)の名訳から引くと、
子曰く、理性で知ることは、感情で好むことの深さに及ばない。感情で好むことは、全身を打ち込んで楽しむことの深さに及ばない・
父・宣雄(のぶお 当時46歳 小十人組頭)が、鉄砲洲・湊町から南本所・三之橋通りの1238坪へ引っ越した時の処置の一つを語ってのことである。
「父上は、倹約ということを、こころから楽しんでおられたのだ」
笑いながら、阿波・徳島藩(25万7000石)・蜂須賀家に、南八丁堀の同藩・中屋敷つづきに、湊町の47九坪余の拝領地を引き渡す交渉で、
「阿波さま方がお望みなのは、敷地でございましょう。建物はかえって邪魔ものと存じますゆえ、当方で取り払います」
といい、棟梁に言いつけて解体し、三之橋通りへ運んで組み立ててしまった。
そのために、新築するよりも、転居が3ヶ月も早まったし、建築費用も材料費分、半減した。
いや、移転・組み立ての時に、棟梁に仰せられた父上の言葉が、いまだに耳にのこっている、と言い、宣雄の声色で、
「南本所とは言い状、深川と申したほうが正しいような所である、いつ、水が出て、冠水するやもしれぬ。家は船ではない。浮かびあがらぬよう、工夫をほどこしておいて貰いたい」
「まあ、お躰つきばかりか、お声まで、七代さま(宣雄)に似てきましたこと」
久栄は、つまらぬことに感心していた。
この挿話を記したのは、ほかでもない。
寛政2年(1790)、平蔵が老中から、無宿人のための人足寄場の創設を命じられ、大川河口の石川島にそれを建てたとき、四谷・鮫ヶ渕橋の某旗本が罪を得て廃絶になり、その家屋が競売に付されたのを、指し値に1分(1両の4分の1)上乗せして落札・解体、石川島へ運び、あっというまに組み立て、収容小屋に転用したのは、父・宣雄のひそみにならった---と言いたいがためである。
)
(人足寄場が創建された石川島と深川南部 近江屋板)
さらに言うと、徳島藩の用人・五島某とのやりとりに、将軍・家治(いえはる)お側(そば)の田沼意次(おきつぐ 当時46歳 相良藩主)の手配で、用人・三浦庄司(しょうじ)が書いてくれた紹介状が大きくものいっている。
五島用人は、宣雄の言い分を、苦笑しながら、呑んだ。
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