« 宣雄に片目が入った(4) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(19) »

2008.07.09

宣雄に片目が入った(5)

「叔父上。昨日もご出仕がありませんでしたな」

長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)が、声をひそめて、(叔父上)と呼びかけたのは、同じ西丸・書院番士の河野十郎右衛門通賢(みちかた 39歳 600石)である。
一族の長谷川家から、河野家へ養子に入っている仁であることは、このシリーズの (3) に述べた。

十郎右衛門が勤めをしばしば欠くのは、職務に不満があるからではなく、実家の亡父・久大夫徳栄(たかよし 500石)への、あてつけなのである。

父・徳栄は、享保元年(1716)に、6人の男の子と、女子1人をのこして、68歳で逝った。
そのときの男子6人の、その後の諱(いみな 元服名)のほうと年齢を記してみる。
幼名でなく諱にしたのは、理解の混乱をふせぐためである。
保貞(やすさだ) 26歳
正誠(まさざね) 21歳
正栄(まさよし) 14歳
 通賢(みちかた)  7歳 
正脩(まさむろ)   6歳
保弘(やすひろ)  4歳
( ・ は、正室が生母)

_360
(長谷川徳栄の6男1女 家譜)

つまり、十郎右衛門通賢だけが側腹(わきばら 某女)の子ということになる。
『寛政譜』に某女とあったら、武家の女性ではない---召使いとか、妾とかとかんがえる。
次男・正誠と5男・正脩は、この家の本家である4070余石を継いだ。
長男・保貞は、本家の叔母(徳栄の次妹)が嫁いだ3050余石の大身・服部家(織田系)へ養子にはいり、つづいて6男・保弘を養子にとって家督をゆずっている。

佐々家の女である正室は、5人もの男子を産んだ。
長子と末子の年齢差は、なんと22歳。17歳で長子・保貞を産んだとして、第6子・保弘は39歳---夫・徳栄64歳---お盛んな! とでも言っておく。

通賢が側腹にできたときも、正室は現役だったのだから、悋気もたいへんだったろう。
側腹の子がいるのがあたりまえの幕臣の家とはいえ、兄たちからも、いやなものを見るような目で見られたかもしれない。

600石の河野家に養子に出されたことにも、露骨な差別扱いを感じたろう。

Photo
(河野家 『寛政譜』)

そういえば、こんなことがあった。
牛込加賀屋敷とも呼ばれた納戸町に、3000坪に近い屋敷を構えている大身・長谷川正明(まさあきら)の庭の花見をかねて、一族が集まるのが恒例になっていた。

_360_2
(牛込・納戸町の長谷川久三郎正明邸)

厄介の子・宣雄(当時は平蔵)は5歳だった。
14歳の通賢(当時は久四郎)が、
平蔵。ついてこい」
と、池の飛び石をぴょんぴょんとわたった。
5歳の宣雄には無理だった。
最初の石で池に落ちた。
それを、通賢は、笑いながら見ていて、助けようとはしない。
従兄の権十郎(当時は権太郎 9歳)の叫び声に、正直(まさなお 当時は隼人 14歳)が水に飛び込んで抱きあげてくれた。
この事で、親戚中の女たちが、
(久四郎は、ひねくれている)
烙印を押した。

「わし一人がいなくても、万事、とどおこりあるまい」
「いえ、そうではありませぬ。十郎右衛門どのの渋いお顔が見えないと、組の気分がしまりませぬ」
「そんな---」
「叔父上には、ご自分がいらっしゃらないときの組の気分は、おわかりにならないでしょう」
「理屈はそうだが---」
十郎右衛門という、お名前が、組の一同の気分を引きしめているのですよ」
「わかった。これからは、なるべく、欠勤しないようにする」

(乗せすぎたかな)
ともおもったが、宣雄には、叔父・通賢の滅入っている気持ちが痛いほどわかっていた。
2児とも、幼くて逝かせていたのだ。

この25年間、顔が会うたびに、
平蔵。おぬし、池のことで、わしを許しておらんだろう」
「池のことって---?」
「ごまかすな」
この問答が、これでもう、繰り返されなくなるとおもうと、
(乗せてよかったのだ)
確信できた。
気にしていたのは、十郎右衛門通賢のほうだったのだ。
芯は、こころ弱い人なのだ。
それを隠すために、ふてくされぶった鎧(よろい)を着ている。

|

« 宣雄に片目が入った(4) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(19) »

003長谷川備中守宣雄」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 宣雄に片目が入った(4) | トップページ | ちゅうすけのひとり言(19) »