宣雄に片目が入った(5)
「叔父上。昨日もご出仕がありませんでしたな」
長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)が、声をひそめて、(叔父上)と呼びかけたのは、同じ西丸・書院番士の河野十郎右衛門通賢(みちかた 39歳 600石)である。
一族の長谷川家から、河野家へ養子に入っている仁であることは、このシリーズの (3) に述べた。
十郎右衛門が勤めをしばしば欠くのは、職務に不満があるからではなく、実家の亡父・久大夫徳栄(たかよし 500石)への、あてつけなのである。
父・徳栄は、享保元年(1716)に、6人の男の子と、女子1人をのこして、68歳で逝った。
そのときの男子6人の、その後の諱(いみな 元服名)のほうと年齢を記してみる。
幼名でなく諱にしたのは、理解の混乱をふせぐためである。
・保貞(やすさだ) 26歳
・正誠(まさざね) 21歳
・正栄(まさよし) 14歳
通賢(みちかた) 7歳
・正脩(まさむろ) 6歳
・保弘(やすひろ) 4歳
( ・ は、正室が生母)
(長谷川徳栄の6男1女 家譜)
つまり、十郎右衛門通賢だけが側腹(わきばら 某女)の子ということになる。
『寛政譜』に某女とあったら、武家の女性ではない---召使いとか、妾とかとかんがえる。
次男・正誠と5男・正脩は、この家の本家である4070余石を継いだ。
長男・保貞は、本家の叔母(徳栄の次妹)が嫁いだ3050余石の大身・服部家(織田系)へ養子にはいり、つづいて6男・保弘を養子にとって家督をゆずっている。
佐々家の女である正室は、5人もの男子を産んだ。
長子と末子の年齢差は、なんと22歳。17歳で長子・保貞を産んだとして、第6子・保弘は39歳---夫・徳栄64歳---お盛んな! とでも言っておく。
通賢が側腹にできたときも、正室は現役だったのだから、悋気もたいへんだったろう。
側腹の子がいるのがあたりまえの幕臣の家とはいえ、兄たちからも、いやなものを見るような目で見られたかもしれない。
600石の河野家に養子に出されたことにも、露骨な差別扱いを感じたろう。
(河野家 『寛政譜』)
そういえば、こんなことがあった。
牛込加賀屋敷とも呼ばれた納戸町に、3000坪に近い屋敷を構えている大身・長谷川正明(まさあきら)の庭の花見をかねて、一族が集まるのが恒例になっていた。
(牛込・納戸町の長谷川久三郎正明邸)
厄介の子・宣雄(当時は平蔵)は5歳だった。
14歳の通賢(当時は久四郎)が、
「平蔵。ついてこい」
と、池の飛び石をぴょんぴょんとわたった。
5歳の宣雄には無理だった。
最初の石で池に落ちた。
それを、通賢は、笑いながら見ていて、助けようとはしない。
従兄の権十郎(当時は権太郎 9歳)の叫び声に、正直(まさなお 当時は隼人 14歳)が水に飛び込んで抱きあげてくれた。
この事で、親戚中の女たちが、
(久四郎は、ひねくれている)
烙印を押した。
「わし一人がいなくても、万事、とどおこりあるまい」
「いえ、そうではありませぬ。十郎右衛門どのの渋いお顔が見えないと、組の気分がしまりませぬ」
「そんな---」
「叔父上には、ご自分がいらっしゃらないときの組の気分は、おわかりにならないでしょう」
「理屈はそうだが---」
「十郎右衛門という、お名前が、組の一同の気分を引きしめているのですよ」
「わかった。これからは、なるべく、欠勤しないようにする」
(乗せすぎたかな)
ともおもったが、宣雄には、叔父・通賢の滅入っている気持ちが痛いほどわかっていた。
2児とも、幼くて逝かせていたのだ。
この25年間、顔が会うたびに、
「平蔵。おぬし、池のことで、わしを許しておらんだろう」
「池のことって---?」
「ごまかすな」
この問答が、これでもう、繰り返されなくなるとおもうと、
(乗せてよかったのだ)
確信できた。
気にしていたのは、十郎右衛門通賢のほうだったのだ。
芯は、こころ弱い人なのだ。
それを隠すために、ふてくされぶった鎧(よろい)を着ている。
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