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2008.07.06

宣雄に片目が入った(2)

この年---寛延元年(1748)閏10月9日、長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石)は、26人とともに、西丸・書院番入りを命じられた。
(『徳川実紀』は、このときの27人について、

西城書院番に入番二十七人。(日記)

としか記していない。暇を見つけて、またも『寛政重修諸家譜』を総ざらえするしかないが、いまは無理だ。おいおいやって、成果はここへ追記していくことにする。

4組ある中の、宣雄は3番組で、番頭(ばんかしら)・柴田但馬守康完(やすのり 54歳 5500石)、その補助をする与頭(くみかしら)は松平(久松)新次郎定為(さだため 64歳 1000石)であった。

これで、書院番か小姓組が約束されている両番の家柄の者として、だるまの片目があいたといえる。

両目があくのは、役料のでる役に就いたときである。

初出仕の前日夕刻、木挽町築地に住む、能勢十次郎頼種(よりたね 46歳)の宅に、3番組に番入りした8人が集まった。
指南番・重次郎頼種から、明日の心得を聞くためである。
服装、所持品、弁当、供の者の待機場所などの指示があり、明朝五ッ(午前8時)に、西丸大手門前に集合と命じられて、解散した。

翌日は、各所へあいさつ廻りで一日がおわった。
西丸の幕閣たち---老中、若年寄、大目付、留守居から、各掛りの頭(かしら)へ能勢十次郎が紹介してくれるのだが、あまりの多人数のために、氏名と役職と顔が一致しない。

しかし、宣雄は、実母・牟弥(むね)が図形教育をしてくれていたので、半分近くは記憶できた。

参照】2007年5月21日~[平蔵宣雄が受けた図形学習] (1) (2)

この宣雄の記憶力には、みんなが感心するとともに、番頭の柴田但馬守を喜ばせた。
柴田番頭は、そろそろ脳の老化がはじまっているのか、姓名をとっさに想起しにくくなっていたのである。
宣雄を秘書がわりにして、
「あれは?」
と、頼りにするようになった。

幕府の役人の出世の条件一つが、役付きの幕臣の何人の顔と氏名と経歴を記憶しており、すらすらと口にできるかであった。できれば、徳川方に入る前に仕えていたのは、織田か、豊臣か、武田か、今川からかなども---。

それだけに、宣雄の特殊な才能は、記憶力の弱い同輩からうらみを買いそうだと、気づいた。
(味方につけることがかなわないまでも、敵にまわさない配慮をこころがけるべきだ)

「どのようにして覚えるのかな?」
指南役・能勢頼種が訊いたときにも、細心の注意をしながらこたえた。
「手前にも分からないのです。ひとりでに記憶してしまうようなのです。ですから、間違えたときには、なぜ、どこで間違えたかが分からない始末でして---」
「覚えるには、なにか、きっかけがありそうにおもうが---」
「武鑑がその一つかも知れませぬ」
「武鑑? 〔須原屋〕茂兵衛店などが、毎年出している人名録か?」
「はい」

「でも、新しい板ではございませぬ。25年も30年も古い板です」
「そんな古い板を、なぜ?」
「父の兄---伯父・正重(まさしげ)が、ご同朋頭〔どうぼうかしら)の家へ養子に入りました」
「なんという家かな?」
「麻布桜田町の永倉家と申します」
「ああ、いまは出仕しておられぬ---」

「はい。養子に入った伯父が病身で、一昨年---延享3年(1746)に亡じました」
「同朋頭なら、武鑑は必携品だものな」
_100長倉家から、不要になった武鑑を払い下げてもらい、飽かず、眺めて育ちました。たとえば、ご指南役どのの家紋の獅子牡丹は、摂津がご本国---」
「驚いたな。そういうことを、楽しみながら覚えつづけるというのが、なんとも、はや---」
「子どものことゆえ、当初は、なにもわからずに覚えましたが、ものごころがついてからは、かえって、間違えることが多くなったようでございます。欲のせいでしょうか?」

「大人には、雑念というものがあるからな。それはともかく、能勢一門には、ほかに矢筈(やはず)と亀甲の内花菱を使っている家もあるがの」
_100_2「それは、存じませぬでした---」
宣雄は知っていたが、わざと知らないふうを装った。
(これで、敵にまわるはずの一人が消えたかな)
「さらにいうと、能勢には、もう一流---本国が丹波の能勢がいるぞ。家紋は十二目結(めゆい)---」
「不束(ふつつか)を見抜かれました。このこと、どうぞ、ご内聞に---」
じつは、これも、宣雄は知っていた。
が、(ご内聞に---)と頼んでおけば、内聞にならなくなるのは目に見えている。
(宮仕えのむつかしさ、だ)

「与頭(くみかしら)の久松どのは?」
_100_3「梅輪内(うめうちわ)とも、梅発(うめばち)ともお呼びになっておられるようですが、独り学習ゆえ、区別がつきませぬ。いつか、与頭さまにお教えいただこうと考えているところでございます
「喜んでご講釈なさるであろうよ。それにしても、偉なるかな、快なるかな」
能勢頼種は、ひとり、ほくそえんでいる。

つぶやき】偶然にひらいた『寛政譜』から、寛延元年閏10月9日に宣雄といっしょに西丸書院番士を拝命した26名のうちの1名が見つかった。

荻原求五郎秀封(まさふ 19歳 700石 武田系

また、1名、発見。

伊東長左衛門祐持(すけもち 28歳 350石 北条系)2008.7.12記。

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