平蔵宣雄の後ろ楯(16)
深川八幡宮の境内の料亭〔二軒茶屋・伊勢屋〕での、若者たちによる〔初卯(はつう)の集(つど)い〕は、暮れなずむ六ッ半(午後7時)に退(ひ)けた。
料亭が、虎の門方面、神田川方面へと、2艘の屋根舟を蓬莱橋の舟着きに用意してくれていた。
(深川八幡宮舟着き 『江戸名所図会』塗り絵師:ちゅうすけ)
虎の門行きには、
長谷川平蔵宣雄(のぶお 30歳 400石 赤坂築地)
石河(いしこ)勘之丞勝昌(かつまさ) 24歳 200石 麻布笄町)
名取半右衛門信富(のぶとみ 23歳 800石相当 赤坂今井谷)
板花安次郎昌親(まさちか 20歳 100俵 西久保城山)
の5人と、名取信富の小者が乗った。
神田川・市ヶ谷ご門方面へ行く舟には、
倉林五郎助房利(ふさとし 28歳 160石 小石川ご門)
波多野伊織義方(よしかた 27歳 200石 裏大番町)
米津昌九郎永胤(ながたね) 27歳 100俵 駿河台袋町)
田村長九郎長賢(ながかた) 20歳 330俵 本銀町)
それに、番町の親類に宿泊している、
本多作四郎玄刻(はるとき) 21歳 200石)
が便乗した。
湯島天神石坂下通りへ帰る松平(松井)舎人康兼(やすかね 18歳 2000石)には、馬を牽いた馬丁が待っていた。
宣雄たちの舟は、横川から大川へ出、佃嶋の西へむかう。
煙管に火つけた石河勝昌が、宣雄に訊いた。
「宴席からずっと拝見しておりましたが、長谷川どのはお酒もさほどに召されないし、煙草もおやりになりませんでしたが?」
「家にずっと病人がおり、とくに煙草の煙がいけないと医者が申すものですから、不調法のままきてしまいました」
「これまで、一服もおやりにならなかったのですか?」
「家には、煙草というものがあったためしがございません」
「出仕して、なにが困るといって、柳営では煙草が吸えないのが一番つらいといわれております。おやりにならないに、こしたことはございませぬ」
「さよう、さよう」
名取信富も煙草入れから煙管を抜いた。
「そういえば、ご老中のお歴々はおたしなみにはならないそうですな」
「お上がお召しにならないからと聞いております」
板花昌親が煙に咳こみながら言った。
「これは、失礼つかまつった」
石河と名取が、そそくさと煙管をしまう。
「長谷川どのは、新田開墾におくわしいと聞いております。家も近くのことゆえ、いちど、お教えいただきたいと考えておれります」
名取信富が話題を変えた。
「どちらにおさずかりでございますか?」
「常陸国茨城郡(いばらぎこおり)宮田村とか、美濃国安八郡(あんはちこおり)北方村(現・大垣市北方町)とか---」
(霞ヶ浦北岸へ注ぐ園部川東岸の宮田村 明治20年の地図)
「茨城の宮田は存じませんが、美濃の北方村は、中山道を上りましたみぎりに通りましたので、土地勘があるかと---」
(焦げ茶=中山道、水色=揖斐川、青〇=北方村 明治21年の地図)
知行地が小さかったり、蔵前米取りだったりで、石河勝昌と板花昌親は、まったく興味を示さなかった。
それを察した宣雄は、
「小普請のあいだは、時間はたっぷりとございますので、いつにてもどうぞ」
話題を打ち切った。
ちょうど運よく、虎のご門の舟着きにつき、陸(おか)にあがり、あいさつを交わして、それぞれの方角へ、宵の中を散っていった。
【つぶやき】引用した2枚の地図は、参謀本部陸地測量部がいずれも明治20年(1880)ごろに制作し、江戸後期にもつとも近く、かつ、正確なもの。
茨城郡宮田村については、たぶん、ここか---という程度で自信がない。
美濃国安八郡の北方村は、あるいは、もっと北東の大きい集落の北方かもしれない。
それぞれの地元の教育委員会や鬼平ファンの方のご教示いただけると重畳。
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