田中城ニノ丸(4)
田中城ニノ丸(4)
「あれから、もう、10年にもなるか。歳月の足は、いかにも、速い」
本多伯耆守正珍(まさよし 60歳 田中藩・前藩主 4万石)は、呟いたあと、なにごとかをおもいだいように、沈黙した。
英明と言われて、天下の仕置きにさっそうと腕ふるった老中現役のころでも反趨したのであろうか。
しばらくして、長谷川平蔵宣雄(のぶお 51歳 先手・弓の組頭)が言った。
「先刻、お目どおりをお許しいだきました寄合・坂本美濃守直富(なおとみ 37歳 1700石)どのは、六郷家からのご養子でございます」
「なに、六郷家? 出羽・本荘藩の故・六郷伊賀(守 政長 まさなが 2万石 享年49歳)侯とゆかりの?」
「支家とうかがっております」
「ふーむ」
正珍は鈴をふって召使いに、用人を呼ぶように言いつけた。
命じられた用人が、延享3年から5年にかけての手控えを持ってくると、ぱらぱらとめくり、
「あった。延享4年(1747)8月5日、六郷下野守政豊(まさとよ 600石)をはじめ14名の者に遺跡をつぐことを許すと、月番老中であった予が告げておる」
「下野どののごニ男が、坂本家へご養子に迎えられた直富どのでございます」
「ますますもって因縁つながりであるな。まて、その翌くる日の8月6日、柴田家から坂本家へ養子にはいった小左衛門直鎮(なおやす)に家督の許しを申し渡しておるな」
「まさに、奇縁!」
要するに、柴田家から直鎮が坂本家へ養子に入ったが、正妻に男子が得られなかったために、六郷家から直富を養子にむかえたら、脇腹に勝房が生まれたので、かれを柴田家へ送って家を継がせたということである。
(柴田家から直鎮が坂本家へ養子に)
(坂本直鎮に男子がなかったので六郷家から直富を養子に)
(坂本直富の子・勝房が柴田家の養子に)
「奇縁の始まりは延享4年でございますか。拙が生まれた次の年でございますから、22年の昔---」
銕三郎(てつさぶろう 24歳)は、延享3年(1746)に誕生している。
ひとしきり懐古談があって、銕三郎が話題を変えた。
「上野・沼田から田中藩へお国替えがありましたのは、たしか、殿のご先代・正矩(まさのり)侯のときと記憶しておりますが---」
「そのとおり、享保15年(1730)、予が21歳のときであったが、大名の嫡子は江戸から離れられない。したがって、予に国入りのお許しが出、藩内の者たちに顔を見せることができたのは、父・正矩が薨じられて翌年の元文元年(1746)6月であった」
「初めて田中城をご覧になられたときのご印象は?」
「そうよな。27歳の青年の目には、武田信玄公の執念を目のあたりに見るおもいであったな」
それほど、濠は深く、土塁(どるい)は高く、ニノ丸・大手門前の馬出しの妙はみごとであったということであろう。
「望櫓にのぼってみて、信玄公の意図もしかとのみこめた。なんと、北東側は藤枝宿の端から端まで、また、南面の駿河の海は、沖の沖まで見はらせた。戦国の世では、まさに要塞を築くにふさわしい地であった」
「そうしますと、大権現さまが、武田の遺臣・坂本某にニノ丸の守備をお命じになったのもむべなるかなと---」
「さよう」
銕三郎は、武田勢の脅威にさらされていた今川氏真(うじざね)が、祖・紀伊(きの)守正長を城主に命じたわけを、正珍の言葉から汲みとっていた。
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