隣家・松田彦兵衛貞居(3)
「久栄(ひさえ 17歳)。お隣りの奥方・於千華(ちか)どののところへご機嫌うかがいに行くのは、この次はいつかな?」
ある朝、銕三郎(てつさぶろう 24歳)が、竹中志斉(しさい)師の学而(がくじ)塾へでかける支度をしながら、新妻・久栄(ひさえ 17歳)に訊いた。
「なにか?」
「うむ。松田(彦兵衛貞居 さだすえ 62歳)どのの、先手・鉄砲(つつ)の2番手の組屋敷は、牛込・矢来(やらい)下の中里町のはずだ。その組屋敷からお隣りまで、往路に何時(なんとき)ほどかかっているか、それについて、組子たちはどうおもっておるか、さぐってきてもらいたい」
(鉄砲の2番手組屋敷 神楽坂上・小浜藩屋敷の矢来下)
聡明な久栄は、
「かしこまりました。きょうにでも、おとないを入れておきます」
先夜、舅(しゅうと)の先手・弓の8番手の組頭・平蔵宣雄(のぶお 51歳)に、そろそろ、火盗改メの下命がくだりそうだと告げてから、銕三郎はなにごとか思案しているふうで、寝間でも、ふっとひとり言を洩らすようになった。
昨夜も睦ごとのあと、うっとりと余韻にひたり、気をとりなおして下紙をまとめた久栄が手水(ちょうずに)に立つと、
「1刻(いっとき 2時間)かなあ」
とつぶやいた。
「え? 半刻(はんとき 1時間)ちょっとでしょ」
「いや、そのことではないのだ」
睦みあいの時間ではなかった。
それで、今朝の言葉で、舅の組の組屋敷・市ヶ谷本村町から三ッ目の長谷川邸までの通勤時間を暗算しているらしいとわかった。
火盗改メの役宅は、お頭の屋敷が兼用される。
【ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』では、池波さんは、火盗改メの役宅が清水門外と決めて、物語をすすめている。
じつは池波さんも、お頭の拝領屋敷が役宅を兼ねるしきたりであることは熟知していた。
『鬼平犯科帳』の連載が始まる1年半前に、『小説新潮』に発表された短編[看板](のち、[白浪看板]と改題して角川文庫『にっぽん怪盗伝』に収録)。新潮文庫『谷中・首ふり坂』では[看板]のままで、「本所二ッ目にある火付盗賊改方頭領・長谷川平蔵の役宅]としている。
森下町の塾から、そのまま、外堀にそって市ヶ谷へ向かった。
弓の8番手の組屋敷は、尾張藩の広大な上屋敷下の道をはさんで向かい---四谷台地の南端下にある。
与力5騎、同心30人がひとつところに住まっている。
(弓の8番手組屋敷 尾張藩邸向かい 市ヶ谷本村町)
火盗改メに任じられていない先手組30組の日常の役目は、江戸城の内側にある、蓮池、平河口、梅林坂、紅葉山下、坂下の5門の交替警備である。
つまり、勤務場所が江戸城内だから、市ヶ谷本村町の組屋敷からは、市ヶ谷門を経由して約25丁たらず、小半刻(30分)もみておけば足りる。
しかも勤務は組ごとに交替だから、夜勤を入れても月のうち10日も通えばすむ。
しかし、お頭が火盗改メの下命をうけると、南本所三ッ目まで、ほとんど毎日通うことになる。
あと、先手組の任務はもう一つ、将軍が上野・東叡山や増上寺の廟へと参詣するときの寺域の警備があるが、年に幾度もあるわけではない。
梅雨前のきびしい陽ざしで、組屋敷に着いたころには、だいぶ汗ばんでいた。
午後の組屋敷のまん中の道には人けがなかった。
奥に遊び場でもあるのであろう、子どもたちの声がしている。
.
脇の井戸を借りて躰を拭こうと曲がったら、向こうから声をかけられた。
同心の雨宮三次郎(24歳 30俵3人扶持)であった。
組子たちの勤務場所は、先に記したとおりに江戸城内だが、宣雄が組頭に就いてから満4年になるし、なにかのときには屋敷へもきているので、面識がないわけではない。
とくに雨宮同心は、おない齢なので、会えば口をききあう仲であった。
「やあ、雨宮さん。非番ですか?」
「食あたりで、欠勤したのです。手前一人が欠けても、どうってことないのですよ。銕三郎どのこそ、何用ですか?」
「納戸町の叔父貴の家まで用事があって、つづいて一番町の大伯父の家へ行く途中、あまり汗がひどいので、躰を拭かせてもらおうとおもって---」
納戸町の長谷川久三郎正脩(まさひろ 59歳 4070余石 持筒頭)は、長谷川本筋の3家の中でももっとも高禄を食んでいる。
一番町新道の長谷川太郎兵衛正直(まさなお 61歳 1450余石 先手・弓の7番手組頭)は、本家の当主である。
「銕三郎どの。新婚のご気分はいかがですか?」
「うむ。嫁となってしまうと、むすめ時分とはがらりと変わる。おんなは化け物よな」
「やはり---手前の思惑も似たりよったりでした」
「雨宮さんは、何年目で?」
「4年目です。根がはえてます」
「はっ、ははは」
「あ、いけない。根が歩いてきました。では、失礼」
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