目黒・行人坂の大火と長谷川組(2)
久栄(ひさえ 20歳)は、臨月であった。
「父上をお助けしなければならぬ」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が、火元の目黒・行人坂の大円寺の納所の者たちから聞き取りをするので、泊り込みで出張るための着替えなどを整えている久栄に言った。
「ご案じくださいますな。2人目は軽いと聞いております。だって、昨夜まで、銕(てつ)さまが通り道をひろげておいてくださったのですもの、するっと生まれましょう。また、離れには母もおり、母屋には姑(しゅうとめ)どのもお控えでございます」
「用は、2日ほどですもう。それまでの、しんぼうだ」
「お帰りになったら、まだ残している、臨月の睦み、第4の手を---」
久栄か、意味深長な笑顔をつくって、口をさしだした。
隣家の松田彦兵衛貞居(さだすえ 65歳 1500石)は山田奉行に転じていたが、奥方の於千華(ちか 37歳)は付随しないで留守邸にのこり、無聊を久栄への色事話でまぎらせていた。
聞きとり組は、組頭・長谷川平蔵宣雄(のぶお 54歳)と次席与力・内山左内(さない 47歳)、同心3名に小者5名、下僕2名に飯炊き、銕三郎と供・松造(まつぞう 21歳)であった。
宿泊所は、天台宗・泰叡山滝泉寺(現・目黒区下目黒3丁目)---と書くより、目黒不動堂としたほうがわかりがはやかろう。
同寺の塔頭の一つがあてられた。
(目黒不動堂 滝泉寺 『江戸名所図会』
塗り絵師:ちゅうすけ)
大円寺へは、10丁(1km)ばかり先の目黒川に架かる石の太鼓橋をわたり、行人坂を半分のぼればすむ。
(夕日丘・行人坂 坂の中途の大円寺に慰霊の五百羅漢石像
同上)
もっとも、寺が焼失してしまっているので、住職たちは、石橋の手前の同宗の、寝釈迦像で有名な安養院能仁寺の離れに避難してきている。
雨がふらなければ、そこから焼け跡の現場までやってきて、訊問をうけた。
(寝釈迦・安養院能仁寺 同じ上)
宣雄の訊問は、現場でも詳細をきわめた。
とくに、住職にうらみをいだいている者、懲罰を行った者の追究はくわしく訊きとられた。
その結果、大円寺の所化(しょけ)だった、武州・熊谷無宿の破門僧の長五郎(ちょうごろう 18歳)が、容疑者第1号としてあがってきた。
銕三郎は、父・宣雄が、寺の僧職の者や使用人などをやさしく問い、手がかりめいたものが語られると、思いだすまで細部を補いながら慎重に訊いてゆく手練から、多くを学んだ。
長五郎の人相書がつくられ、写しも何枚も描かれて、町廻りの同心たちはしっかり覚えた。
【ちゅうすけ注】人相書は、ふつう、親・主殺し、放火犯しかつくらない。
しかし、長五郎は、どこに潜ったか、それらしい報告はあがってこなかった。
人びとは、避難生活と焼け跡の片づけに、それどころではなかった。
放火犯人は、ご公儀の仕事ともおもっていた。
そこへ、芝の香具師の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 42歳)の息・伸太郎(しんたろう 21歳)が、銕三郎を訪ねてきた。
大火から丸20日目であった。
怪しい若者が芝のあたりを徘徊していたというのである。
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