備中守宣雄、着任(5)
上(かみ)の禁裏付の役宅は、御所の北側---近衛家脇の今出川門から相国寺へ通じている道の東側(上京区の同志社大学裏門の向かいあたり)にあった。
68歳の天野近江守正景(まさかげ 300俵 1000石格 役料1500石(実は俵))は、よほどの寒がりらしく、綿入れで着ぶくれていた。
この好々爺が、月番で御所の詰所(祗候間 しこうのま)へ参内するときには、10人をこえる供にかこまれ、五摂家と行き交っても槍を伏せないほどの威厳を示すのかと、事情をしっている者なら疑うであろ。
ここでも、備中守宣雄は、ぬかりがなかった。
「ご壮健なのは、お血筋でございますな」
近江守は目を見はり、
「実父をご存じですか?」
「はい。仙波年種(としたね 220俵 享年79歳)どのでございましょう? 小十人の5番手与頭(くみがしら 組頭とも書く)の現役を23年間も矍鑠(かくしゃく)とお勤めだった、伝説のお方です」
「おうおう、実家の父をご存じのお方にはじめてお目にかかりましたぞ。長谷川どの。ゆっくりとして、実父のことをもっと聞かせてくだされ。なにしろ、手前は10歳のときに養家にだされましたので、実父の記憶が薄うございましてな」
「お兄上さま・弥一郎(やいちろう 享年79歳)どのも長寿であられました」
「あの兄とは、血がつながってはおりませぬ」
「しかし、甥ごの弥左衛門(やざえもん)どのも、大番を現役でお勤めです」
「あれは、甥ごというても、手前と1歳ちがいなのですじゃ」
さすがの太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)も、恩賜の自慢ができなくて、憮然とした面持ちでいるのが、部屋の片隅にかしこまっている銕三郎(てつさぶろう 27歳)にはおかしかった。
(それにしても、父上は、いつのまのあのよな知識を仕込んだのであろう?)
「ご実父・仙波さまですが、手前が小十人におりましたときに、風邪や腹痛で欠勤届けでも出そうものなら、仙波さまを見習えとはっぱをかけられましたものです。それほど、ご精勤をおつづげになり、小十人組の鑑(かがみ)でございました」
「長生きもご奉公の一つですな」
「まったく」
もっと話して行けとすすめる近江守に、あと、東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000俵)との約が控えていると赦しを乞う。
近江守正景は、いかにも残念といった面持ちで、
「また、お遊びにおこしくだされ」
何度もくりかえした。
その夜、宣雄と銕三郎が交わした会話を記しておく。
「父上。上(かみ)の禁裏付どのの実家のこと、どのようにしてお調べになったのですか?」
「われが頭をしていた小十組が5番手だったから、伝説を耳にはさんでいてな。上洛するまえに古巣へ行っていまの組子たちにたしかめてみた」
「それにしても---」
「銕。人というのは、自分のことにいちばん興味をもつものなのだ。他人のことは、不幸なことにしか興味を示さない」
「しかし、そこまで、自分を無になさいますと、お躰にさわりませぬか」
「そういうものだと割り切れば、別にどうということもない」
銕三郎は、父の顔色がさえないことをいいそびれた。
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コメント
宣雄が小十人とだけ言って、5番手の頭であったことを伏せたのは、仙波の実父が頭の下で配下をとりしまる与頭(くみがしら)であったので、自分をえらそうに見せたくなかったから。
投稿: ちゅうすけ | 2009.09.06 05:39