備中守宣雄、着任(6)
東町奉行・酒井丹波守忠高(ただたか 61歳 1000石)の役宅は、西町と同じく、奉行所の敷地の中にあった。
この月の月番は西町なので、東の奉行所は表門を閉ざしている。
脇の門が役宅の玄関へ通じている。
小柄な丹波守が齢より老けて見えるのは、目尻や口元の両端の皺が深いからであろう。
川釣りが好きというだけあり、肌はけっこう日焼けしていた。
「この春の目黒・行人坂の火付犯の割り出し、お手柄でありました」
かつて、先手・弓の10組の組頭時代に、火盗改メの助役(すけやく)を半年近く勤めたことがあるだけに、火付犯の逮捕のむつかしさをこころえた口ぶりであった。
「僥倖でございます。それよりも、あの火事で、向柳原のお屋敷がご難でありましたこと、お見舞い申しあげます。発(た)ちます前日に、奥方さまにごあいさつに伺いましたが、お住まいは九分どおり進んでおりました。新しくなり、かえって使い勝手がよくなったとお喜びの様子でありました」
「おお、お忙しいところ、わざわざ、お見舞いくだされましたか。恐悦、恐悦」
連れの太田播磨守正房(まさふさ 59歳 400石)の留守屋敷は赤坂築地なので、火難をこうむっていない。
この会話に加わるわけにはいかず、憮然としていた。
備中守宣雄(のぶお 54歳 400石)は、着任のごあさつ代わりのつもりと断り、携えていた釣竿を袋から抜いて差しだした。
受けた丹波守忠高は、目をかがやかせ、
「東作(とうさく)でござるな。いま、江都でめきめきと評判を高めておるやに聞いておりましたが、備中どのから頂戴できるとは---優美な姿(しな)といい、しなりの軽妙といい、さすが、噂にたがわぬ逸品。かさねがさね、恐悦至極」
丹波守のよろこびようは尋常ではなかった。
銕三郎(てつさぶろう 27歳)は、父・宣雄の釣り好きをしってはいたが、東作を手みやげに選ぶとはおもいもつかなかった。
【ちゅうす:け注】『鬼平犯科帳』文庫巻12の好篇[密偵たちの宴]p184 新装版p194 に、宣雄は町医・玄洞の筋向かいの釣道具屋〔浜屋〕伊四郎方の釣竿「好んでひいきにしている」とある。
とにかく、東作の竿で、丹波守と宣雄の親密さはたちまちに深まった。
「で、本日の獲物はいかがでございましたか?」
播磨守正房が精いっぱいのお世辞を言った。
丹波守忠高はほとんど無視同然の口ぶりで、
「上手は、釣らぬのを矜持(きょうじ)としておるのでござるよ。ふっ、ふふふ」
手はあいかわらず、東作のしなり具合をたのしんでいる。
「江戸では、北風(ならい 寒冷な強風)は魚に吉---といいますが、京ではいかがでしょう?」
宣雄の問いかけは、丹波守のこころをくすぐった。
「まさに、至言ですぞ」
帰宅してから、銕三郎が東作の効果に感心したことを告げると、宣雄はさらりと、
「かの仁は、水野一門から酒井の末流へご養子にお入りになった。どちらも名家中の名家である。そこへ、今川系の長谷川では、対等のおつきあいはむつかしい。しかし、釣り朋友ということであれば、あとは腕次第」
「それにしては、父上は、釣りをお誘いくださいと申されませんでした」
「あたりまえじゃ。釣り人というのは、自分の穴場を釣り仇には教えないものよ」
「そういえば、丹波さまもお誘いになりませんでした」
「人情の機微よ」
銕三郎が、好々爺を装っている酒井丹波守を隅におけない仁とみたのは、つぎの一幕があったからでもある。
丹波守が宣雄に問いかけた。
「ところで西のご奉行。隅にお控えの若衆は、ご継嗣ですかな」
「はい。銕三郎と申す、ふつつか者でございます。今後ともに、よろしくお引きまわしのほどを---」
「ふつつか者と思うているのは、父親ばかりでな。うっ、ふふふ。これ、銕三郎とやら。本多紀品(のりただ 59歳 2000石)どのはお変わりないかな?」
本多采女(うねめ)紀品の名が突然iでてきて、あわてたのは銕三郎ばかりでなかった。
宣雄が、
「どうして、本多どのを?」
「うっ、ふふふ。火盗改メをやった者の性(さが)でござろうか。盗賊という字を見逃せぬのですな」
「は?」
「本多どのが、〔荒神(こうじん)〕の助太郎だか助兵衛とかいう盗賊の探索方を、当時の所司代・阿部伊予(守 正右 まさすけ 42歳=当時 福山藩主 10万石)さま経由で頼まれましたろう? その書状が東町にまわってきておりましてな。いや、前の前の奉行・小林伊予(守 春郷 はるさと 65歳=当時 400石)どののときです」
「そんなものまでもお読みで?」
「釣り場で、浮きを見ているのに飽きたときに---」
【参照】2008年2月16日[本多采女紀品] (5)
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