備中守宣雄の嘆息
「銕(てつ)。そなたには、いまから25年前の寛延元年(1748)4月3日に、われが、6代目・宣尹(のぶただ)どのの遺跡を継ぐことをゆるされ、その日、同様のお達しをうけたうちの10人が、初卯(はつう)の集いを約したこと、話したことがあったな」
「5年ほど前に、その集いのことをお尋ねしたら、10人のうち、お2方がお亡くなりになったとおっしゃいました」
銕三郎(てつさぶろう 27歳)が応えた。
「あれは明和4年(1767)であった」
【参照】2008年6月30日[平蔵宣雄の後ろ楯] (15)
2008年8月18日[〔橘屋〕のお仲] (5)
宣雄(のぶお 55歳)は、なにかを思案するように黙りこみ、双眸(ひとみ)を伏せた。
やっと口をひらき、
「あの明和4年には、さらにお2人---津田(30歳)どのと米津(36歳)どのも逝かれたのじゃ。もっとも、津田どのは初卯の集いに参じてはおられなかったが---」
「おのこりになったのは、お7方---」
「そうでない。おととし---明和8年に、石河(いしこ 64歳)どのと松平(41歳)どのが亡じられた」
松平信濃守康兼(かねやす 2000石)の個人譜は、上記[平蔵宣雄の後ろ楯] (15)に掲げてある。
西丸の目付から、禁裏付に転じ、任地の京師でみまかった。
「松平康兼さまのお名は、佐野(与八郎政親 まさちか 42歳 1100石)の兄上からお聞きしたことがあります。松平ご一門なのに、偉ぶったところがなく、佐野の兄上を先任者としてお立てなるとか---」
「初卯の集いでも、年長者をつねにお立てになっていた」
その康兼は、この地の黒谷金戒(こんかい)光明寺の塔頭(たちゅう)・長安院に葬られた。
「江戸で逝かれたご葬儀には参じたであろうが、信濃どのは当地に葬られたゆえ、なにもできなんだ」
「それは、いたし方のないことでございます」
「いや、今なら、線香の1本なと、供(そなえ)て差しあげられる。さいわい、年賀のあいさつ廻りもひととおり終わった。この機をのがすと、用務繁多となり、身動きがとれなくなろう。明日、参じたいが、そなた、供をしてくれるか?」
「はい」
「久栄(ひさえ 21歳)にも、そう申しておいてくれ」
「久栄も、でございますか?」
「われとて、この地で果てるやもしれない。京の寺のしきたりを見覚えておくのも、なにかの心得であろう」
「縁起でもないことを仰せになられますな」
「冗談じゃ。与力の浦部(源六郎(げんろくろう 51歳)が案内にたってくれるそうじゃ」
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