京都町奉行・備中守宣雄の死(7)
この[宣雄の死]の項の(4)に引いた、江戸時代の初期から幕末までの幕府役人の任免記録を役職別に分類した『柳営補任』の記録を、ふたたび引く。
長谷川平蔵宣雄(備中守)
明和9年(1771)10月15日御先手加役ヨリ
安永2年(1772)7月17日卒
山村十郎右衛門良旺(信濃守)
安永2年(1772)7月18日御目付ヨリ
同 7年(1777)7月20日御勘定奉行
【参照】2009年11月23日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (4)
【ちゅうすけ注】山村十郎右衛門良旺(たかあきら 45歳 500石)に信濃守に叙されたのは、京都着任後の9月1日付であった。
山村信濃守良旺の【個人譜】
宣雄の卒日が、6月でなく、1ヶ月近くもずれていることも指摘しておいたが、これだと、後任の山村十郎右衛門良旺は、卒日の翌日に着任してきたようにこみえないこともない。
いや、正確にいうと、内示があってから発令とみ、内示の段階で上洛の準備をはじめたとしても、正式の申し下しがなければ、江戸でのあいさつ廻りができまい。
2日でそれをすませたとして、行列を組んで東海道を順調にのぼって14日、千本通りの役宅へはいったのは、早くて8月10日---じっさいは、それよりも少し遅かったのではあるまいか。
その到着まで、銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、役宅を整理しながら待っていたのであろうか?
なんのために?
引継ぎ?
彼は、正式に嫡子であるが、父の京都・町奉行の職務とは、表向きにはかかわりはない。
引き継ぎは、京都在住の与力・同心たちが全員、そのまま居座っており、筆頭与力が中心となっておこなうであろう。
ちゅうすけとしては、役宅の整理を手早くすませ、内与力格で働いていた桑島友之助(とものすけ 40歳)を山村新奉行への応対にのこし、遺跡(400石)相続の呼び出しがいつあってもいいように、早ばやと京をあとにしたのではなかろうか。
少なくとも、残暑のきびしい6月晦ごろには京を発したとみる。
銕三郎の遺跡相続の申しわたしは、同じ年(安永2年)の9月8日であったことは、[宣雄の死]の項の(1)に記しておいた。
【参照】2009年11月20日[京都町奉行・備中守宣雄の死] (1)
銕三郎は、久栄に言った。
「去年の初冬、父上とともに京へのぼるときには東海道であったろう。帰府には中山道というのは、どうかな?」
「銕(てつ)さまが、そうなさりたいのでしょう?」
「歩いたことがないゆえ、この機会の目におさめておけば、今後の勤めに役立つようにおもえるのだ」
「東海道の宿場々々のおなじみのおんな衆へのごあいさつが欠けますが、それておよろしいのでしたら、中山道といたしましょう」
「こいつめ---」
「う、ふふふふ」
『柳営補任』の誤記を鵜呑みにした書き手がいたらしい。
着任した山村良旺が、帰府する銕三郎の世話をあれこれしたというふうなことを書いていた。
ところが、いま、その文章をあちこち探しているのだが、どこへまぎれこんだのか、みつからない。
明記しなくても、まあ、どうってこともないか。
気になったので、あれこれ検索していたら、3年前の当ブログ---2006年7月27日[今大岡とはやされたが]にぶつかった。
なんのことはない、自分で書いていたのである。(笑)
なにを読んでそう記したか、やはり記憶はない。
(始まってきたのかな---?)
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