小普請支配(2)
「おととい、城中で朝比奈(織部昌章 まさとし 54歳 500石)うじに話しかけられての---」
小普請支配を勤めている長谷川久三郎正脩(まさひろ 63 4070石)の、納戸町のひろい内庭に面した書院である。
「ほう」
【参照】2008年6月29日[平蔵宣雄の後ろ楯] (14)
銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、40代の昌章しか知らない。
父にいいつかった季節の届け物を持参すると、在宅しているときには着流しで応対にあらわれ、父・宣雄(のぶお)の出世に、おしむことなく賀辞をつらねてくれた。
自分が、名流・朝比奈一族の末であることなど、意に介していないふうであった。
あとで父にそのことを告げると、織部どのは土屋家(2500石)からの養子だが、そういうことをまったく気になさっていないところができぶつなのだと教えられた。
「それで、朝比奈さまは、いまだに与頭(くみがしら)をお勤めなのですか?」
「なにをいうか。与頭の大練達で、すべての組の与頭が頼りにしておる。なにせ、もう、25年近くも与頭---という仁なのじゃ」
「それは、それは---」
「その朝比奈うじがな、平蔵どののご嫡子・銕三郎どのが跡目を継いで小普請入りなされるようだが---と、奥歯になにかはさまったような風情でな。あれは、奥祐筆に手をまわして、朝比奈うじの組---長田(おさだ)越中守)組へ入れるつもりのように見たがの」
「長田越中守さまと申しますと---」
「さきほど、手控え帳の名簿を見たであろうが」
9の組
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)
明和6年(1769)1月28日 70歳 普請奉行ヨリ
安永4年(1775)7月2日 76歳 辞
「最長老の---」
「不満か? そうではないぞ。小普請組中から役にふさわしい士を推薦するときに、もっとも発言力が強いのが長老で、しかも与頭が、同列の中での生き字引とあがめられておる朝比奈うじときておる。銕(てつ)どのは出世の早馬に乗っも同然じゃぞ」
「そういう仕組みでございますか」
「備中(宣雄 のぶお 享年55歳)どのの出世が早かったのも、ご本人の実力もさることながら、朝比奈うじ、それに当時の柴田ご支配の引きたてが大きくものをいっておる---」
【参照】2008年6月26日[平蔵宣雄の後ろ楯] (12)
(昌章・個人譜)
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コメント
小普請支配という職分の作用が、人材の登用に資していたなんて史実には、考え及びませんでした。
逢対日が下見に近い制度だったんですか。
投稿: 文くばり丈太 | 2009.12.05 05:52
>文くばり丈太 さん
ご承知のように、老中や若年寄にも逢対日がありましたが、小普請支配のは、もっと下のクラス、本所住まいのご家人とか、銕三郎のように両番の家格の子で出仕まえの無役の旗本たちが売り込みに往ったようです。
もちろん、そこで音物なども届けられたでしょうが、支配の鑑識眼も問われたでしょうし、いろんな世間話も交わされたとおもいます。
投稿: ちゅうすけ | 2009.12.05 11:42