元締たちの思惑(2)
顔ぶれが揃ったところで、この家の主(ぬし)で勧進元格の〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 43歳)が声をかけた。
「そろそろ始めたいので、お席へ、どうぞ」
伸蔵の嫡男・伸太郎(しんたろう 23歳)が、新しい座布団を壁ぞいにならべ、その後ろにいままで使われていたのを裏返して置いていった。
どういうふうに席につくのか、興味津々の平蔵(へいぞう 28歳)は、指定された伸蔵元締の右手から眺めていると、反対側には、顧問格の〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 46歳)、そのうしろに新造のお多美(たみ 32歳)、さらにうしろに小頭・〔大洗(おおあらい)〕の専二(せんじ 35歳)がかしこまった。
その隣は、関取ふうの巨躰の〔薬研堀(やげんぼり)〕の為右衛門(ためえもん 50歳)で、うしろに小頭・〔於玉ヶ池(おたまがいけ)〕の伝六(でんろく)。
次が浅草・今戸の一帯をしきっている〔木賊(とくさ)〕の2代目を継いで2年ほどになる今助(いますけ 26歳)で、小頭は〔銀狐(ぎんこ)〕の乙平(おつへい 31歳)。
つづいて山下・上野広小路一帯を預かっている〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 26歳)と小頭代理の〔黒門町(くろもんちょう)〕の儀助(ぎすけ 24歳)が、席が高すぎるといった落ち着かない表情で坐った。
〔丸太橋(まるたはし)〕の元締の代理ということで、自ら末席についたのは、元締のむすめ婿・雄太(ゆうた 39歳)と、2番手の小頭・千吉(せんきち 26歳)であった。
要するに席は、元締になった年次順にしたがっていた。
(城内の秩序と変わらないな)
平蔵は、一癖ありそうな元締衆と小頭たちを見わたし、火盗改メの頭になったとして、与力を元締、同心を小頭とおもい、統御していく修練の場とおもうことにした。
さて、平蔵側の隣には、板元を引き受けさせられた駕篭屋の主・〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)。
羽織姿で坐っていると、なかなかの貫禄で、箱根の雲助あがりとはとても見えない。
つぎの〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)は、名だたる元締衆と同席して興奮しているが、早めに来て、ちゃかり売りこんでいたから、これからは、自分のところの〔読みうり〕のネタ元には困らないであろう。
平蔵は、伸太郎を招き、うしろに松造(まつぞう 22歳)の席をしつらえさせ、玄関脇の部屋で待機しているのを呼んもらった。
松造が席につくと、伸造元締が簡単にあいさつをし、左手のお歴々は互いに存じよりの者ばかりだからと、右の平蔵と松造を紹介し、つづけて権七、紋次に流した。
「長谷川さま。ご説明ください」
〔愛宕下〕にうながされ、平蔵は組下の与力・同心たちに言いわたす気分になって、
「これからのことは、ここだけの話にとどめていただきたい。じつは、京都で、祇園の〔左阿弥(さあみ)〕の元締どのと組んで、〔化粧(けわい)読みうり〕を板行したのは、お披露目枠を売ってお足を稼ぐのが目あてではなかったのです。あ、紋次どの。あと半年、くれぐれもこのことを書かないでもらいたい。
じつは、ある役所の不正をあばくために、不正をしている役人の家族---といっても、おんなたちですが、化粧指南師のところへおびき寄せ、不正のしっぽをつかむのが目的であった」
元締衆の目の色が変わり、みんな、身をのりだしてきた。
とりわけ、目を輝かせたのが、〔於玉ヶ池〕の伝六であった。
「ところが、お披露目枠の奪いあいが起きただけで、不正役人の家族はひっかかってこなかった。武士の商法とはよくいったもので---」
聞いていた側に軽い笑い声がひろがった。
「つまり、拙は、父孝行ができなかったのです」
権七が言葉を足した。
「ご承知とおもいますが、長谷川さまのお父上は、目黒・行人坂の火付け犯をお挙げになり、京都町奉行におなりにったお方です」
「放火犯人を挙げるより、役人の不正をあばくほうがもっと難しいということです。まあ、行人坂の火付け犯の逮捕も、こちらの伸蔵元締どののお力のほうが大きかった。ことほどさように、いまの武士は質が落ちている」
みな、うなづいて、いやらそうしてはいけなさそうやらで、困った表情をつくった。
「〔化粧読みうり〕のお披露目枠の扱いを〔左阿弥〕の2代目・角兵衛どのに一手におまかせした。そのときの角兵衛2代目について見聞したのが、ここにひかえている松造です」
松造が、角兵衛の切きりだし方をなぞった。
「まず、しょっぱな、四条通り麩屋町東入ルの大店(おおだな)・〔紅屋〕平兵衛方へへえっていって、旦那にお目にかかりてえ、〔左阿弥〕の2代目が、お店(たな)のお得になる話をもってめえりやした---と、こうでさあ。いえ、若元締は、はんなりした京ことばでおやりになりやしたが---」
「〔紅屋〕は、〔左阿弥〕の縄ばり内にあったらしく、角兵衛さんの顔を見た番頭は、すぐに奥座敷へ招じやした。
江戸でご身分のあるさるお方が、京洛で只の〔読みうり〕(フリーペーパー)を板行するにあたり、そのお披露目枠の権利を、父の円造におまかせになった。
〔読みうり〕の内容は、おんなたちに、綺麗になる方便(ほうべん)を指南するもので、刷り数は、とりあえず2000j枚、くばるのは、〔左阿弥〕が取り仕切っている祇園社と清水寺さんの縄ばり内でだしている仮店が、齢ごろのおんな客に手渡す」
「で、お披露目枠だが、8枠しかねえんで、ご近所のよしみで真っ先に〔紅屋〕さんへ話をもってきた。8枠全部をさしあげてえが、それではこちらさんの引き札(広告チラシ)になってしまい、真実味がうすくなる。どうだろう、半分の4枠でこらえてもらえねえだろうか---こうでさあ」
小頭たちが感心したように、聞き入っていた。
【参照】2009年8月22日~[〔左阿弥〕の角兵衛] (1) (2)
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コメント
全く、話が違いますが、鬼平ファンとしては聞き捨てならない情報をキャッチしましたので、お知らせします。
「三方原の戦と小幡赤武者隊」(岩井良平 著 文芸社)を読んでいましたら 、こんなことが書いてありました。 「ところで、現・三方原町637の本乗寺には精鎮塚と呼ばれる塚(碑)(写真参照)がある。・・・・精鎮塚は、地元では昔から、三方原の戦の徳川方の戦死者を祀ったものだと言い伝えられてきたそうである。・・・・精鎮塚が開墾作業の支障になったことと、当時三方原の本乗寺の住職であった青島淳雄師は、先祖(長谷川紀伊守正長33歳、長谷川藤九郎英一弟19歳)が三方原の合戦で戦死しているので、その供養をしたいと念願していた折に、この精鎮塚の話を聞いて、・・・・これを譲り受けて本乗寺の境内へ移転して、以来現在に至るまで代々の住職によって供養が続けられてきているのである。」と、あります。思いがけずに聞く話なので、本文とは関係ないのに、コメントしてしまいました。
投稿: パルシェの枯木 | 2010.02.05 19:43
貴重な情報、ありがとうございました。
三方ヶ原の武田信玄軍との戦いには、いくつもの謎と不明にことがあります。うち、その一つが、長谷川平蔵の直接の祖である、長谷川紀伊守正長とその弟の戦死場所です。
塚が現存していましたか。
5月の〔鬼平クラス〕の遠江エウォーキングには、ぜひ、参詣して、住職のお話をききたいですね。
投稿: ちゅうすけ | 2010.02.06 05:56