内藤左七直庸(なおつね)
「銕(てつ)どのが非難されていては、兄者(あにじゃ)格として、見逃すわけにもまいらぬ」
「仰せのおりです」
すなおに頭をさげた。
とはいうものの、腹の底では、
(長野佐左衛門孝祖(たかのり)め、奥の一人ぐらい、押さえきれないでどうする)
いささか、むっとしていた。
平蔵(へいぞう 29歳)は、城内で、目付・佐野与八郎政親(まさちか 43歳 1100石)の伝言を受けとった。
「下城の時、拙宅へ立ち寄られたし」
それで、こうして、永田馬場南横寺町・佐野邸の書院で対峙(たいじ)している。
長野孝祖の妻女が、実家・藤方家へ、夫が小間使だった女を囲っていて、その片棒を、平蔵がかついだと愚痴ったのである。
【参照】20104月3日~[長野佐左衛門孝祖(たかのり)] (3) (4) (5)
かついだどころではない、金子も17両(272万円)も用立てた。
返済は出世払いということにしてあるが、返ってくるなどとは露おもってはいない。
(どうせ、知恵をはたらかせた[化粧](けわい)読みうり]で得た金子である、友の役にたてればいうことはない)
最初(はな)から捨てた気でいる。
しかし、ふりかかってはきた火の粉ははらわないわけにはいかない。
「藤方といわれますと、小納戸の?」
「さよう。あの勘右衛門忠英(ただふさ 58歳 600石)どのだ」
藤方忠英は、北畠家の出であることを鼻にかけ、ことごとに、
「礼法の本筋はここうでしたな」
注釈を加えるものだか、西丸の主・家基(いえもと 13歳)も辟易ぎみと洩れてきていた。
「それでな、与(くみ 組とも)頭の内藤どのも聞き捨てもならず、(長野)佐左衛門(孝祖)に事情を質(ただ)したところ、銕どのが金主としれての---」
西丸・書院番第3の組の与頭は、内藤左七直庸(なおつね 64歳 465石)であった。
「たしかに、用立ててやりました。その小間使いが、いじめに抗しきれずに首でもくくったら家門の恥とおもいまして---」
「そうであろう。しかし、藤方のほうではそうはおもっていないようだ。じつのところを、与頭・内藤どののご都合をうかがい、釈明なさっておくほうがいい」
「かしこまりました。わが組の与頭・牟礼(むれい)さまへも、お話しておきます」
「そうなさるがよろしかろう」
「お教え、ありがとうございました」
「そう、あらたまるでない。供の者たちは帰し、酒でも酌みながら、巷のおんなどもに評判の[化粧読みうり]のことでも聞かせてくだされ」
「あ。発覚(ぱれ)ておましたか。これは恐縮」
「目付職をあなどるでない。はっ、ははは」
(藤方忠英とそのむすめの個人譜)
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