隣家・松田河内守貞居(さだすえ)の不幸(2)
南本所・三ッ目通りの屋敷へ入る前に、門扉を閉ざしている隣家・松田(河内守貞居 ただすえ 68歳 1150石)邸をうがうと、内側では人の動きが感じられた。
見舞いを述べに訪(おとな)ったほうが礼にかなっているようにもおもえ、しばらく立ちどまっていると、脇のくぐり戸があき、息・新三郎貞大(さだひろ 16歳)が出てきた。
「新三郎どの。いかがなされた? お手伝いすることがあれば申されよ」
平蔵(へいぞう 30歳)の立ち姿に、新三郎はぎょっとしたが、
「いえ。いまのところは---」
下僕をうながし、そそくさと南へ消えた。
部屋で待ちかまえていた、久栄(ひさえ 24歳)が、
「たいへんでございます」
「それはわかっておるが、そなたはどこから聞いたのだ?」
「どこからって、昼すぎから、お姿が見あたらないのでございますよ」
「姿がみえない?」
「於千華さまです。実家(おさと)のお弟ごが主、雉子橋通り小川町の堀田(兵部 一常 かずつね 53歳 5000石 小普請支配)さまへもお帰りでないようで---」
「それで、新三郎が捜しに走っていたのだな」
(堺町の茶屋にでもしけこんでいるのだろう)
思ったが口にはださなかった。
堺町には、役者と楽しむための出会茶屋がいくつもあった。
「河内(守)どのの容体のこと、どうしてわかったのだ?」
「小者が、運よく、鳥羽湊に立ち寄った樽廻船をつかまえ、やってきたのですよ」
長谷川家の小者が、松田家のその小者から聞きだしたらしい。
河内守貞居が、先手・鉄砲(つつ)の2番手組の組頭から伊勢山田奉行へ転じたのは、4年前の明和8年であった。
内室・於千華(36歳=当時)とその子の新三郎(12歳=当時)、継妻の子で正常ではないために離れの座敷牢にいる3男・岩之丞(18歳=当時)を江戸の屋敷にのこして赴任した。
もちろん、奉行所の役宅には、身のまわりの世話と寝屋の伽も兼ねたおなごがついた。
老耄(ろうろく)の気配に用人は、去年の夏ごろに気づいたという。
が、症状は夜にでるだけで、昼間の執務時はふつうにできていたので、大目付へは報らせなかった。
ところが、1ヶ月ほど前、江戸の於千華が芝居者とねんごろになったという噂を耳にしたときから、朦耄(もうろう)が急激にすすみはじめ、いまでは、内与力の用人はおろか、夜伽をしているおんなの顔さえ記憶から消えてしまった。
『実紀』の安永4年(1775)3月12日の項---。
山田奉行松田河内守貞居奉職無状の聞えをもて。糾問あるべけれ共。恩免せられ共事なく。職奪ひ小普請とせられ、門とざさしむ。
『柳営補任』の山田奉行の項---。
明和八卯十月廿日御先手ヨリ
安永四未二月九日御役不似合之儀有之
御役被召放、小普請入閉門
『寛政譜』---。
(明和八年十月ニ十日ー山田の奉行に転じ、十二月十八日従五位下に叙任す。安永四年三月九日奉行職に似合わざることきこえしとて、小普請に貶され、閉門せしめられ、十月ニ十八日ゆるさる。
半年後の解禁には、堀田兵部一常をはじめとする於千華の閨縁が大きくものをいったろう。
しかし、さすがの閨閥も、貞居が離れの牢同然の隔離部屋で歿する天明元年(1781)jまで、新三郎貞大(20歳)の相続は実現しなかった。
【ちゅうすけ注】堀田家の『寛政譜』によると、於千華は3女で一常の姉と記録されている。
一常は、事件のあった安永4年には53歳だったらしいから、その姉とすると、40歳ではなく53歳かそれ以上でないと勘定があわない。
だが、その安永4年での新三郎の16歳も動かせないから、於千華を53歳より上とすると、37歳以後に産んだ恥掻っ子ということにしないといけない。
(松田貞居、貞大の『個人譜』)
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