〔三文(さんもん)〕茶亭〕のお粂(くめ)(2)
御厩河岸の茶店〔小浪(こなみ)の借り主が変わること。
借り主は、長谷川家の従僕・松造(まつぞう 26歳)の内儀・お粂(くめ 36歳)であること。
その内儀は、老職・田沼意次(おきつぐ)侯にもかかわりがあるおんなであること。
ついては、新開店から半年間、家賃なしと願いたいこと。
町の風評は、まちがいなく、市中見廻りの耳にいれること---などを記した書状を、火盗改メ・弓7の組、土屋帯刀守直(もりなお 44歳 1000石)の次席与力の高遠(たかとう)弥大夫(やだゆう 58歳)へとどけた。
お粂が〔小浪〕の女主人になる話を、いちばんに喜んだのは松造であった。
勤めの時刻がほとんどいっしょになるからであった。
薬研堀の料亭〔草加(そうか)屋〕の女中頭だと、退(ひ)けがどうしても五ッ(午後8時)をすぎる。
日によっては五ッ半(午後9時)をまわることもあった。
〔草加屋〕へ迎えに行く松造が岩井町の惣介長屋へもどり、晩酌をしてからの床入りは四ッ半(午後11時)。
若い松造がちょっと念を入れた翌朝の、七ッ半(午前5時)の起床はつらかった。
平蔵(へいぞう 32歳)は、わがことのように、茶亭の算用に知恵をしぼった。
まず、店の名を〔三文(さんもん)茶亭〕に変えるようにすすめた。
御厩河岸の渡し賃が3文であるからというのが、その理由。
(ただし、武士は無料)
渡し賃並みの茶代なら、気軽に、「ちょっと休んでいこうか」とおもう客も多いはずである。
3文はいまの120円。
若い美人を揃えているほかの水茶屋では、15文(600円)から30文(1,200円)の店もあった。
茶葉の仕入れは、井関録之助(ろくのすけ 28歳)が上方へ消えるまで用心棒をしていた、北本所の寮の持ち主、日本橋室町の茶問屋〔万屋〕源右衛門(げんえもん 56歳)方に、平蔵が話をとおし、卸し値で届けさせることにした。
【参照】2009年6月2日[銕三郎、先祖がえり] (4)
店の壁には、「〔万屋〕の披露目どころ」と書いた小さな看板をあげさせた。
店の中央に茶室ふうの四畳半の座敷をしつらえ、真ん中に炉をきり、自在鍵をつるす。
客はその周囲に腰をおろす---そうすれば長ッ尻ができないから、客の廻りが早くなり、半刻(1時間)に3廻り、日に30廻りとして、1畳3人掛けが満杯なら400人、その半分とみて600文の売り上げ---茶葉や薪炭、洗い水、 湯呑みの補充などに200文をあてても400文(1朱半 1万6000円)の儲け。
武士の商法とは、こういうのをいうのであろう。
今戸の〔銀波楼〕の女将・小浪(こなみ 38歳)が笑いながら、
「お粂はん。当分、お通(つう 10歳)ちゃんだけにしときィ。雇人はおかんと」
お粂も、そのつもりでいると応えた。
店中に四畳半はむりで、4畳の真ん中に、それでも1尺4寸(42cm)四方の炉をきった。
予想もしていなかったことが2つおきた。
〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 51歳)元締の内儀・お多美(たみ 36歳)が、
「もう、着ィへんようになったよって---」
恐縮しながら、ほとんど新品に近い四季の着物を持ってき、祝ってくれた。
おなじことを、小浪が、
「うちが店をやってたときに着てたもんで、かんにやけど---」
どちらも京好みの色柄で、女客の目が光った。
もう一つは---。
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コメント
御厩の渡し賃って3文だったなんて、初めて知りました。
このブログ、ほんとうによく調べられてしますね。
お粂さんの茶屋のネーミングが「三文茶亭」、じつに単純明快。いまでいえば、「100円ショップ」。
客とすれば、安心して入れますね。
投稿: mine | 2010.10.13 09:02
>mine さん
文を書く人はみんなそうだと思うのですが、できるだけ資料をあたって、正確な情報をこころがけます。
しかし、江戸時代となると、こまかなことがなかなか知りえません。
御厩の渡しの料金は、さいわいに史料がありました。
投稿: ちゅうすけ | 2010.10.13 09:50