医師・多紀(たき)元簡(もとやす)(7)
「長谷---いや、平(へい)さん。きれいな女将ですね」
部屋へ案内し、平蔵(へいぞう 35歳)から〔黒舟〕の権七(ごんしち 48歳)にすぐくるように使いを出してくれといわれ、合点した里貴(りき 36歳)が退(さ)がると、多紀(たき)安長元簡(もとやす 26歳)が無遠慮に嘆声をもらした。
よほどに感銘をうけたらしい。
「女将が聞いたら、嬉しがろう」
「お世辞ではありませぬ」
『医心方 巻二十八 房内篇』の[第二十ニ章 好女(こうじょ)---寝間でいいおんな]にいう、
---骨は細い、肌は肌理(きめ)細やかで艶があって若々しい。
しかも、透きとおるほどに清らか。
肉づきはたおやかだが、指の関節はくぼむほどに細い。
毛髪は絹糸のうに細くてまっすぐ。
脊丈は中肉中背。
この条々をそのまま具現している、と力説、恥毛もないか、あっても薄いとまで予言した。
「手前がこの10年近く、夢にみていた女性(にょしょう)です」
「これ。聞こえると、大変なことになるぞ」
「は---?」
「この茶寮は、ご老中・田沼(意次 おきつぐ 62歳)侯のお金で成った」
酒と手軽な肴を配膳した里貴に、
「夢ごこちです」
ぬけぬけと告白した。
「え---?」
平蔵が、わけを伝えると、
「多紀さまより10歳も上の姥(うば)でございます」
いなしたが、元簡は里貴を瞶(みつめ)ている。
(これはいかぬ。頭の中で、里貴を裸にし、内股の絹糸までたしかめているかもしれない)
「里貴どのの縁者に、齢ごろの処女(むすめ)のこころあたりはありませぬか?」
里貴が生まれた貴志村が、半島からの渡来人が故郷のしきたりをかたくなに守ってくらしている村であることをおもいだし、問うてみた。
【参照】2010年3月31日[ちゅうすけのひとり言] (53)
「冗談ではございませんのね?」
「安っさんの顔を見れば、冗談ごとではないことがわかろう?」
「おんなにとっては一生の大事でございます。一見(いちげん)のお言葉だけで軽々しくはお受けするわけには参りません」
「それもそうだ」
ちょうどうまく、権七があらわれ、話題がかわった。
互いを引きあわせ、元簡が医師としての美顔術の囲みの短文を書いてもいいといっていると告げると、
「それは重宝ですが、上方からの版木でなく、江戸で版木を彫ることになります」
そのことは、元締衆の賛同をとりつけるとして、囲みの短文の一例を元簡に求めた。
美しくなりたいと願っている若い女性をなやますものの一つに、ニキビがある。
自分も、10代の後半には悩まされた---と前置きし、
「『医心方 第四巻 美容篇』の[第十四章 治面方---ニキビの治療法]に、3年酢(黒酢)を満たした陶器壷に鶏卵を殻つきのまま沈めて油紙の蓋をし、首を紐でくくって密閉し、七日おくと、殻がぶよぶよになります。そこで白身と黄身をべつべつの容器にわけ、それぞれをニキビに塗ると、早いときには一晩であとかたもなく消えました」
「あら。うちの女中にニキビでなやんでいるのがいますから、早速、ためさせます」
「里貴どの。効いたら教えてくだされ」
平蔵が他人をよそおった、
権七が口をはさんだ。
「清らかな色白になるとか、精が増し、ひと晩に数回も戦えるようになるというのはにわかには信じられないが、ニキビが一夜のうちに消えるというのは、ほんとうにできそうです」
「残った液で手の甲に塗り、乾いてから洗い流しますと、みごとに白くなっています。信じられないなら、片方の手の甲だけでためし、両手を比べれば信じざるをえません」
【ちゅうすけ注】『医心方』ついては槇 佐知子さん訳の筑摩書房版を参考にさせていただきました。
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